――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港62)
香港で角突き合わせる日本の両組織の手打ちの条件の1つが「九州、上海から出発する女は長崎の親分支配とし、日本本島からくる女は下関の親分の支配とすること」であったなら、あるいは当時の香港は、日本から送り込まれて来る女郎を東南アジア各地に送り出す一種の“配送センター”の役割を担っていたとも考えられる。いや、あるいは香港を鵜飼の鵜匠とするなら、彼女たちは鵜となって南洋各地に送り込まれたとも例えることができそうだ。
『村岡伊平治自伝』は当然のように眉にツバしながら読み進めるべきであり、すべてを信用するわけにはいきそうにない。だが、なにからなにまでがウソというわけでもなさそうだ。全体を俯瞰してみるなら、少なくとも当時の香港における日本社会の“もう1つの真実”が透けて見えてくることは確かだ。やはり万事がキレイごとで済むわけはない。
ここで素朴な疑問を持つ。彼女たちが相手にした客は、いったい、どこの誰だったのか。
ところで勝海舟は『氷川清話』(江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫 2003年)に「海外発展」の表題で、次のように語っている。やや長くなるが、肝心な部分を引用しておく。
「海外発展といふ事は、小ポケな島国の日本にとつては最も肝要な事サ。しかしその行く順序がまるで?倒して居るよ。
まづ一番鎗が例の女だよ。お次がソレを顧客とする小商人やナラズ者サ。それからその地方が有望といふ事でもつて中商人が行き領事館ができるといふ始末さ。ソコで外国では日本人といふ奴はヒドイ奴ばかりだとなつて到るところ評判が悪く、万事警戒してかゝる。これもミンナ若い男共が意気地がなく睾丸がない奴ばかりだからだ。
ソコになると外国の奴らは実に見上げたもので、まづ海外不毛の地には教法師が行つて伝道もすれば、医薬慈善の事をやる一方、地方の物産や事情を本国に報告して何々の商売が有利だと報告する。今度は資力余りある富豪が出掛ける、小商人も行く、女も行く、領事館が行くといふ風である。ソレであるから外国人はみなその地方では評判がよく、たとへゴロつきでも紳士となり、淫売でも貴婦人として待遇されるわけサ。
一体醜業婦々々と言つて軽蔑するが、それを善用すればたいしたものだよ、日本のケチな外交官などでは利用法も知るまいよ。ツマリ女などはホツおいて構わぬに限るサ。万一事の起つた時は、ソンナ奴は日本人では御座らぬと突放していゝ事サ。日本の役人共は馬鹿正直で公私の区別を明かにせぬから困る。個人としては日本には悪徒も大分居るやうだが、国家としてはまるで馬鹿正直サ」。
このように率直に語る勝を現在の視点でオカシイと論うのは、やはりオカシイ。いや、間違いだ。村岡の回顧談と重ね合わせてみれば、具合が悪かろうが過去の事実は事実として“真っ当”に受け止めるべきだ。口を拭ってシランプリこそ、最も忌むべきことだろう。
その上で考えておきたいのが海外発展における彼我の手法の違いだ。つまり、「まづ一番鎗が例の女だよ。お次がソレを顧客とする小商人やナラズ者サ。それからその地方が有望といふ事でもつて中商人が行き領事館ができるといふ始末」に対するに、「まづ海外不毛の地には教法師が行つて伝道もすれば、医薬慈善の事をやる一方、地方の物産や事情を本国に報告して何々の商売が有利だと報告する。今度は資力余りある富豪が出掛ける、小商人も行く、女も行く、領事館が行くといふ風」である。
勝の説くところに従うなら、西欧列強は「まづ海外不毛の地には教法師が行つて伝道もすれば、医薬慈善の事をやる」。「ソレであるから外国人はみなその地方では評判がよ」い。対するに「まづ一番鎗が例の女」であり、「お次がソレを顧客とする小商人やナラズ者サ」では、彼我の違いは明白。これでは、端っから勝負はついていてしまっている。《QED》