――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港60)
そんな香港で、日本人はどのような生活をしていたのか。岡の記した「1720人が異邦人」のなかの何人が日本人だったのか。ここで自ら些か場違いとは思うが、「南洋ノ金さん」を名乗った「ドクトル村岡」こと村岡伊平治(1867年~1942年?)に登場願うこととする。
波乱万丈の自らの人生を、彼は『村岡伊平治自伝』(講談社文庫 昭和62年)に綴っている。だが、その言動は毀誉褒貶の振幅が激しく、誇大妄想のホラ話も少なくなさそうでもあり、やはり“マユツバもの”の部分はなきにしもあらず。だが百聞は一見に如かず、である。彼の香港体験を追っておく必要はありそうだ。
村岡が香港に現れたのは、岡が香港を離れて8か月ほどが過ぎた1885年12月だった。時間差からして、村岡在住時も「1720人が異邦人」という人口構成に大差はなかったろう。
「香港につくと、さすがは外国で、十八歳の拙者はただただ驚くばかり。波止場のあたりを歩いておると、海岸通りに五階建てのりっぱな建物がある。見ると『東洋館』と書いてある。一階と二階は支那人が使っており、三階以上がホテルとなっておる」。なんでも東洋館の経営者は西山という前科者で、4、5年前に香港に流れてきたらしい。ほかに「大高館」という日本人経営の旅館があった。岡の許を廣瀬と名乗る日本旅館の経営者が訪ねているが、あるいは廣瀬が大高館の経営者だったのか。
それはておき、興味深いのは次の記述だ。
「町にはすでに日本人の女郎二百人ばかりがおり、日本人の店も野間商店というのが一軒、密犬(淫)売を兼ねたコーヒー店も五、六軒もあった」。かりに「日本人の女郎二百人ばかり」も「1720人が異邦人」のうちに含まれていたとするなら、単純計算だが当時の香港に住んでいた異邦人の8、9人に1人は「日本人の女郎」だったことになる。ということは香港の街で異邦人に石を投げれば、おそらく「日本人の女郎」に当たったように思うのだが。
もう少し平岡のホラ話を続けてみたい。
当時18歳だった平岡は一旗揚げようと長崎を後に香港にやってきたのだが、どうも勝手が違って持ってきた金が底を尽いた。そこで1886年2月に東洋館から放り出されてしまったので、「他の日本人の家を頼み歩いたけれど、知る人なし、せんかたなくピークの山に野宿することになった」。「ピークの山」とは、香港島の背骨ともいえるヴィクトリア・ピーク(太平山)だろう。因みに中国語で「山頂纜車」と称するケーブルカーの完成は3年後の1888年5月だから、「せんかたなくピークの山に野宿」した岡は、ケーブルカー工事を目にしていたかもしれない。
パンと清水で数日は凌げたが、その先の見込みが立たない。そこで「遠く皇居に向かい、天皇様に大敬礼をすること五分、それから万歳三唱してピークの山を降り」、泣きついた「大日本帝国領事館」の手配で「ユダヤ人が経営しておる海員の口入所」に預けられることになる。
そこに「宿泊しておるのは外国人や日本人で三十六名、うち日本人は左の十名であった。薩摩の仁治郎 シヲ大吉 横須賀の直、小豆島の伊藤 長崎の亀 長崎の中村 四国の矢野 神戸の政 幸之吉 他一名」とか。
その名前からして、彼らが正業に就いているとは思えない。どう考えても「日本人の女郎」の周辺に寄生しているに違いない。ある日、村岡を訪ねて「すばらしいベッピンが」がやってきた。故郷・長崎県の「南高来郡加佐村の福田しほである」。じつは「むかし恋しあったおしほが、こんな境遇になっておるのを見て、まったく意外だった」。「こんな境遇」が女郎、つまり「からゆきさん」を指していることは言うまでもないはずだ。《QED》