――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港49)
水供給問題へ対応からも読み取れるように、やはり文革初期の香港やマカオを舞台にした過激な反殖民地闘争は極めて限定された、より現実に即して言うなら功を焦った香港やマカオの左派による暴走に近く、北京を握った毛沢東ら文革派からすれば“余計な先走り”だったということだろう。その証拠に、左派の攻撃に手を焼いたマカオ政庁(ポルトガル)がマカオからの全面撤収を示すや、中国側は拒否したとの指摘もある。
香港留学中の70年代前半の5年ほどを思い返しても、時に半日程度の断水があり、水が貴重であることを思い知らされることはあっても、長期に断水した記憶はない。中国が香港向け給水管のバルブを締めることはなかったということになる。
生活必需品にしても、たとえばブタに始まり冬の食卓を飾る鍋料理で使う土鍋(薄い土色で、補強のために外側を針金で補強してあった)、さらには洗骨した後の骨を納める素焼きの甕(「金斗」)までもが大量に、中国から貨車やトラックで運ばれていた。
揺り籠から墓場までと言わないまでも、生死にかかわる多くの部分を中国に頼らざるをえなかった。であればこそ当時も、香港の生殺与奪の権はロンドンではなく、北京が握っていたことになる。少なくとも香港の市井の人々はそのことを体感していたものの、文革なんぞは取り合わない。見て見ぬ振りをした。だから文革は中国系の書店や映画館から飛び出し、香港の街を揺り動かすことなどできはしなかったのだろう。生きていくためには共産党政権と妥協する。だが共産党政権の言うままにはなりたくない。
それにしても中国からブタを満載した貨車を旺角の駅で見掛けるたびに、糞尿塗れの大量のブタが発する悪臭に鼻孔を強烈に刺激されながら、これが文革中国で育ったブタのニオイか、と不思議な感慨に浸ったもの。文革に揺れる共産党政権下の農村で丸々と育てられたブタは、ほどなく資本主義社会の香港で徹底して喰い尽くされる運命にある。ブタが中国農民の生活を支え、香港住民の胃の腑を満たす。1匹のブタが大陸と香港の人々の生活を支えるのだから、「一国両制」ならぬ「一豚両生」と表現したいような状態だったと思うのだ。
閑話休題。
あるいは毛沢東のみならず現在の習近平政権に繋がる北京の権力者にしてみれば、取り敢えず香港を、しかも自力で太らせるだけ太らせて、いずれ“おいしくなった香港”を適当な時期に支配下に置けばいい、と目論んでいたようにも思える。これなら費用対効果はバツグンだ。だから昨(2019)年6月来の香港に対する強硬措置を、習近平政権の強権体質のみに短兵急に求めるのではなく、やはり香港が背負ってきた歴史の流れの中で考察する一方で、中国における権力体質から考え直す必要があるはずだ。
現在の香港において露呈した“人権抑圧状況”を根拠に、短兵急に結論を求めることだけは避けたい。ある種の政治的意図に基づいて「人道と非人道」、「自由と抑圧」と腑分けし習近平政権を糾弾するならまだしも、“純情無垢な義憤”は百害あって一利なし。やはり感情は理性で抑えなければ話にもならない。
たとえば「人類史上空前の魂の革命」を謳われた文革の実態、あるいは天安門事件の若き民主化の闘士たちのその後を思い起こすだけでも、日本人特有の素直さなんぞ中国政治の現実の前では屁の役にも立たないのである。日本人の淡い期待は弊履の如く打ち捨てられた苦い経験を、改めて思い起こすしかない。
歴史に「IF」は禁物だが、国共内戦に?介石が勝利したと仮定して、はたして香港はどのような運命を辿っただろうか。「白色テロ」以降の台湾の暗黒時代を考えるなら、現状とは対極の、自由で民主的な香港が実現していたなどとは夢想すらできそうにない。《QED》