――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港11)
香港の現状から特別行政区は形を変えた殖民地だと思いたくもなるが、ともあれ1840年のアヘン戦争を起点として歴史が転換して以降、香港は一貫して自分で自分の運命を選べない殖民地のままだった。いったい殖民地としての香港は、どのような社会だったのか。
大陸に近く、周囲を深い海で囲まれた無人に近い岩だらけの香港島は、スコットランド人海軍士官ネピア卿の「天然の良港になる」との予言のままに、大英帝国にとって清国市場への橋頭堡となった。先ず香港島(1842年の南京条約)を、次いで九龍(1861年の北京条約)を清国から割譲させ、仕上げとして1898年に新界を99年期限で租借する。
一攫千金の夢を求めて欧米からやって来た野心家が支配者然と君臨し、中国からの職を求めて流れ込んできた大量の中国人を労働力として従える。二層構造社会の香港は、大英帝国の極東経営の拠点として異常なまでの繁栄を謳歌する。南中国の沿海部に位置する香港が“金の卵を産む鶏”となり、国際社会に華々しくデビューしたのであった。
1860(万延元)年正月、新見豊前守を正使とする遣米使節一行はアメリカ西海岸を目指し、太平洋を東に向かって船出した。幕府が海外に派遣した最初の使節である。一行はアメリカ大陸を東に進み、各地で大歓迎を受けながらワシントン入りし、やがて大西洋を横断して南回りで帰途についた。
最後の寄港地となった香港で市中見物した一行は、周囲を現地人に取り囲まれ進めない。するとイギリス人が「鞭を挙げて群衆の人を制し往来を開いて」くれた。かくて一行の目には「支那人英人を恐るる事鱗の鰐に逢うが如し」(「亜墨利加渡海日記」)と映る。殖民地の繁栄を下支えする「支那人」は「鞭」を手にするイギリス人を前に、鰐を恐れる魚のように卑屈に振る舞うしかなかった。
それから半世紀ほどが過ぎた1911年10月に清朝が崩壊し、異民族である満州族支配が終わる。辛亥革命の報が伝わるや、清朝支配の象徴である弁髪を切り去った香港住民は、街頭に飛び出し、「漢族万歳」「西洋人を殺せ」「イギリス人を追い出せ」と叫んだ。
さらに14年が過ぎた1925年、上海の日本紡績工場の労働争議をキッカケに中国全土を揺るがせた「五・三〇事件」が発生するや、広州の労働組織の支援を得た香港の労働者はストライキ(「省港大罷工」)による反英闘争に打って出た。殖民地政府(香港政庁)に対し政治的自由、法律上の平等、普通選挙、労働立法に加え、家賃値下げや居住の自由などを要求したのだ。
もちろん政庁は拒否する。だが労働者は怯むことなく反英闘争を続けた。世界の労働争議史上最長とも言われる激しいストライキによって、交通や電気など社会インフラは大きな影響を受け、経済は大打撃を被り、企業家は甚大な損失に苦しみ、香港は「死の街」と化したほどだ。省港大罷工を仕掛けたのは、1921年の結党から間もない中国共産党だった。
香港労働者の生活向上を勝ち取ったとされる省港大罷工が収束して1年ほどが過ぎた1927年、香港を訪れた魯迅はその印象を「再談香港」に綴っている(以下、拙訳)。
「香港はチッポケな一つの島でしかないのに、中国のいろいろな土地の、現在と将来の縮図をそのままに描き出す。中央には幾人かの西洋のご主人サマがいて、若干のオベンチャラ使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『現地人』だ。苦労に耐えられる者は西洋殖民地で死に、耐えられない者は深い山へと逃げ込む。苗や瑶は我われの先輩なのだ。(一九二七年)九月二十九之夜、海上」(『而已集』人民出版社 1973年)。なお、「現地人」の原文は「土人」である。
私の留学時代の香港は、はたして魯迅が描いた当時と本質的な違いがあったのか。《QE