――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘53)橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2092回】                       二〇・六・念四

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘53)

橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

ところが、『荀子(彊国篇)』を体現したような“奇跡の中国人”がいたというのだから、なんともビックリするするしかない。

盧溝橋事件から3週間ほどが過ぎた昭和12(1937)年7月29日に北京東郊の通州で発生した通州事件に関連して調べを進めていた際に、その人物に出くわした。通州に置かれた冀東防共自治政府を殷汝耕と共にリードした池宗墨である。実業家から政治の世界に足を踏み入れた彼は、自らを「孔孟学徒」と任じていた。

殷汝耕との「竹馬の友たる情誼」から自治政府の中枢入りを果たし、官僚を率いる立場に立った彼は、「現在の公務員は三誠を守るにあらずんば不可である。一に髪を蓄へず、二に嫖賭せず、三に吸煙せず、能くかうした三誠を守り、僧家の清規を守るが如くすべき」であり、官僚の誰にも「自愛するを知り、官規を恪守し、廉潔政府を造成し、人民の為に幸福を謀り、国家の為に模範を作(な)さんことを」求めている。

ということは「先進国である日本を兄」とし、「中国は之に追随して行く弟である」と位置づける池が対した冀東防共自治政府で働く公務員は、清朝の古俗から抜け出せず、女遊びに現を抜かし、煙(アヘン)に溺れていた。「官規を恪守」することがないから「廉潔政府を造成」できない。「人民の為に幸福を謀」るわけはないから「国家の為に模範を作」すことはなかった、ということだろう。

池宗墨は自治政府が管轄する領域内の各県を巡回し、先ずは「公務員が受くる所の国家の俸禄は、即ち是れ人民の脂膏」であることを自覚させようと務め、「連日、本長官(池自身を指す)が各?公室を視察し、各公務員の精神毫も振作せず、散漫にして秩序なきを感覚さる。?公室内に常に多勢聚談し、甚だしきは几(つくえ)に隠れて酣睡するに至る。〔中略〕?(も)し再び以上の不規則行動あらば、一たび発覚せば決して寛恕せず」と、公務員のあるべき執務姿勢を説いたという。

自治政府とはいえ、やはり役人は数千年の中華官僚社会の伝統を墨守していた。「受くる所の国家の俸禄」が「即ち是れ人民の脂膏」などと考えてはいない。ましてや彼らは公僕としての矜持・自覚など皆無である。意気消沈して綱紀は緩むばかり。上下の秩序は乱れ、執務室に屯してはバカ話に興じ、なかには机に凭れ居眠りをする輩もいたほどだ。

また池は中国人が自省の心を持たず、何事に対しても「差不多(まァまァだ。まァいいか。仕方ねェか)」と口にしてしまう付和雷同性を強く戒め、カネでいとも簡単に寝返ってしまう中国兵の質の悪さに憤る。そして、どうやら日本を想定し、中国人は「必ず須らく人の長とする処を採り、而して我の短とする所を補ふべし」と説いた。

自治政府の長としては、「民意暢達」「政府会計の明朗化」「閨閥中心の打破」「綱紀粛正」「実務主義」を掲げたものの、結果として笛吹けど踊らず。やはり“偉大な中華文明”は、数千年の官僚インチキ・デタラメ・私利私欲文化を切り離すことは出来ないようだ。

日本敗戦後の1945年末、狂人を装って潜伏先していた北平(現在の北京)で逮捕。中華民国の法廷で漢奸の罪で死刑判決を受けたが執行はされず、中華人民共和国成立から1年半ほどが過ぎた1951年5月、反革命罪などで死刑判決され、即刻執行。享年62歳。

徹底した国民党・三民主義嫌いだったらしく、日本留学中の1916年、革命の血を滾らせた若き日の池は日本亡命中の孫文を訪ね議論を重ねた。その折、革命後の国家で指導者になると孫文が語るや、「あなたは自分が指導者になるために革命をやるのか」と強く詰った、とか。学生運動や革命には懐疑的であったとされる。

孫文の「領袖慾」を直接徹底批判・・・アッパレ至極。記憶しておくべき人物だ。《QED》


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