――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘43)
橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)
国民党が目指す新国家建設の理想とは、三民(民族・民権・民生)主義を柱とする。
民族主義とは「(一)中國民族が外國に對して自ら解放を求めること(二)中國々内の各民族を一率に平等ならしむることの二重の意義を含む」。
民権主義とは「間接民權の外に直接民權を行ふものである。即ち國民は單に選挙權を有するのみならず同時に創制、復決、罷官の諸權を有する」。
民生主義は「土地の使用及び地價の騰貴に對し民衆利�の代表者たる政府に強大な管理權を附與する」(「地權の平均」)と、「基本産業及び大規模な諸産業を政府の手で獨占的に經營する事を意味し、即ち一種の國家資本主義を實行するもの」(「資本の節制」)の2つの原則から成り立っている。
以上を理想とする国民党は国民革命を遂行する上で、「ソヴェート・ロシア、中國共産黨、国内の無産者及び學生等」を味方とし、初期の「(国外の)帝國主義者の外、國内に立憲派、聯省自治派、平和會議派及び商人政府派の四つの勢力」に加え、「軍閥、官僚、買辨及び土豪の四つの勢力」を敵とする。
ここまで読んで来て2つの疑問が湧いた。
1つ目は、共産党と国民党の目指す理想の国家に、いったい、どのような違いがあるのか。やや強引に言ってしまうなら、ほぼ同じではないか。現在の共産党独裁政権が進めている政策は、ここに見た国民党が目指した理想の国家の一部を実現していると言えるだろう。であるとするなら共産党と国民党は――とどのつまり毛沢東と?介石は――“同じ穴のムジナ”ということにはならないか。
2つ目は、ここに見える国民党の理想は、後に橘が満洲の大地に描こうとした理想の国家と、どこで、どう違うのか。細部に亘っていれば違いは見つかるだろうが、ザックリと総体的に捉えるなら同じだろう。ここまできたら「弐キ参スケ」こと東条英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右が縦横に動き回っていた当時の満洲国と見紛うほどだ。
「弐キ参スケ」が「赤い夕陽の満洲野が原」に築いた国家が、じつは初期国民党が目指した理想の国家像だったなら、泣くに泣けない。それはキメラどころか壮大な蜃気楼だ。
かりに橘が深く考え過ぎた余りに、中国人の理想の国家を共産党と国民党のそれを足して2で割ったような姿に思い描いたのだとしたら、これは笑うに笑えない。
この辺りの疑問は、いづれ日本人にとっての大難題である満洲国を考える際に詳細に論究する必要があろうから宿題として残し、今は先に進もうと思う。
さて国民党が目指す理想の国家の前に立ちはだかる敵である「軍閥と官僚とが勢力を維持して居る間は國家の改造は不可能であり、買辨と外國企業との聯合勢力が根を張つて居る間は、中國の産業の發達する餘地は至つて乏し」い。「土豪が其の社會的經濟的勢力を農村に揮つて居る限り農民の地位向上は望まれない」。加えて「軍閥の勢力は其の窮極の根據を軍隊に置くるものであるから、之を掃蕩する爲には矢張り兵力を以てする外ない」――こう橘は問題点を指摘するが、よくよく考えると、この社会構造は現在の共産党独裁下の中国の構造に近くはなかろうか。
幹部の勢力は絶対的である。「買辨と外國企業との聯合勢力」に代わって幹部が企業活動を展開し、富を得ている。彼らの企業経営権を支えているのは権力である。幹部が「其の社會的經濟的勢力を農村に揮つて居る」から「農民の地位向上は望まれない」。幹部は「窮極の根據を軍隊に置くるものであるから、之を掃蕩する爲には矢張り兵力を以てする外ない」が、共産党以外の勢力が「兵力」を持つことは厳禁・・・どうもナランのです。《QED》