――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘14)
橘樸「中國民族の政治思想」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)
「上帝が有�の人を選んで天下の君とする」。だが「上帝自身には口がない」。そこで上帝の意思は「輿論に依」って現れる。「此の考は古くから漠然と行われて居た」が、「此の漠然たる信仰に稍具體的表現を與へたのは孟子であった」そうな。だが孟子は自らの「デモクラティックな政治思想を理論として有らゆる機會に表現することは怠らなかつたけれども」、「此の思想を事實として表現する方法を案出し得なかつた」。
そこで橘は「戰國の樣な思想自由な時代が今二三百年も續いたら、二千年前の中國に頗る進歩した政治理論が、孟子を出發點として展開されていたかも知れぬ」と“夢想”する。だが漢王朝が出現するに及んで孟子の「デモクラティックな政治思想」は潰えてしまう。それというのも「漢の天下が固定した爲に、實際政治は申すに及ばず政治理論までも例外なく專制主義に向かつて進んだ」からである。この動きを決定づけたのが漢の武帝のブレーン集団の筆頭たる董仲舒で、「孟子のデモクラティックな政治思想を(意識的にか無意識にか)葬り去つた爲に、政治と民衆の間に大なる空隙を生じ」、かくして官僚は民衆の犠牲の上に「勝手に政治を行ひ」、「民衆は其の犠牲を最小限度に止めることに努力しつゝ勝手に其の實生活を營んだ」というのだ。
どうやら中国における為政者と民衆の間の「上に政策あり、下に対策あり」で表される支配・被支配の関係は、漢代に始まり習近平政権の現在まで2000年余に亘って連綿と続いていると考えられる。ということは、この統治システムが彼らの民族的体質にピッタリと馴染んでいるのではないか。かりに具合が悪かったら、いい方に改める努力を「上」なり「下」が、あるいは「上」「下」が力を合わせて試みたはずだ。だが努力の跡は「上」からも「下」」からも見られない。
毛沢東が掲げた「農民革命」「新民主主義」を、その努力の一端だと無理に無理を重ねて認めたとしても、結果的には毛沢東(つまり「上」)に正統性を与え、権力の神格化・最大化に繋がりこそすれ、権力の一端でも「下」に譲渡することはなかった。であればこそ、やはり伝統的統治システムは彼らの体質に根付いたものと考えざるを得ない。世界第2位の経済大国のトップである習近平が“唯一絶対者”として振る舞っていられるのも、漢代以来の統治システムに由来すると見做すべきだろう。
それというのも「中國支配階級の行政上の標語」の「莫談國事」が求めるように、「支配階級は頭から民衆の政治批判を禁止するのである」。だから「民衆は支配階級の命令を俟つ迄もなく、政治などに容喙する暇があれば商品の手入れをしたり豚に食餌を與へて居る方が餘程利�だと考へて居る」からだ。これこそ�小平式開放路線だ。
じつは中国では「政治は民衆にとつて全く無用の仕事であり、〔中略〕寧ろ有害な現象である」。だが、ここで「諦めの好い中國人のことだから、無用有害には相違ないが而も不可避的災難であるとして納得して居る譯である」。つまり「政治を洪水や旱魃や流行病と同性質なもの位に考へて居る」ことになる。だが同じく「不可避的災難」ではあっても政治は人間の行為である。そこで「政治呪詛の感情が動き、老子の�が歡迎される一つの原因を形作るのである」。とどのつまり民衆は政治を憾み、諦め、そしてカネ儲けに奔るのみ。
かくして老子の考えが「絶對的專制政治の下の中國民衆に受入れられ現に全國に亙つて行はれて居る」が、「中國民族の自然の要求としては矢張り孟子の力説した樣にデモクラティックな政治形式が當嵌るのではあるまいか」と。だが、この主張も現実離れ気味だ。
はたして現在に至るまで、中国で孟子の考えに基づく「デモクラティックな政治形式」が実行されたとは思えない。その要因を橘は語るべきだろうが、なぜか避けている。《QED》