――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘12)
橘樸「中國民族の政治思想」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)
長い道草を食ったところで橘に戻る。
「孔子派と老子派の信仰なり思想なり態度なりは」、「正反對の立場に立っている」。孔子にせよ子思及び孟子にせよ、必ずしも意識して治者階級を擁護しようとしたのではな」く、「唯彼等は傳統的に天子の地位及び其事業たる政治を尊重し、天命を奉じて其の意思を人類の社會に實現する方法は此外に無いと信じて居たに過ぎない」。ということは「天命」に対しては無条件で絶対無謬で絶対聖、至高至尊の価値を認めていたことになる。
これに対し老子は「神や天や上帝などと云ふもの一切を否定し、人類は其の有りの儘に放任して置きさへすれば、其れが一番彼等にとつて幸福であると觀た」。そこで老子は「先づ天命説を破壞しない限り、被治者階級を治者階級の無慈悲な檻の中から救ひ出す事は出來ない。天命説の最大根據は唯一神の信仰にあるのだから、有神論を破壞しなければ天命説に止めを刺す事が出來ぬ」と考えた。「二千數百年後の今日迄も中國人の大多數」も、「矢張老子と同じ考えをしか抱いて居ないのである」。
ところが老子の天帝破壊は不徹底だった。「無神論者なる老子は神の代りに虛無を説いた」。ところがその虚無は「無限の生産なる功德を有するところの虛無を高調するのであ」り、「絶對の空を主張する」ところの仏教のそれとは明らかに異なり、「餘程有神論の痕跡が殘つて居る」。
老子の人生観は「彼の宇宙觀が虛無を中心とする樣に、其の人生觀も亦謙虛と柔弱とを説くのである」。
老子は「非常に交通と云ふ事を惡」み「孤立した社會を主張する」。それというのも、「彼の時代には冒險的商人の往來が繁苦く、之が種々な惡い智慧を撒いて歩いたものらしい」からである。
伝統的に中国の「各村落は一姓若くは數姓の大家族を單位として成立し」ているという事実から推し量れば、「老子の時代も大して變りなかろうと思う」。そこで老子は「是等の小部落が互いに交通を斷ち、即ち孤立して生存する事を理想としている」。「小国寡民」だ。
ところが、ここで問題が起こる。老子の理想とする「小社會を組織する家族制度の中に壓制や殘忍や、從つて虛僞や貪慾や不德が充滿」しがちだ。そういった「弊害の根源が父權制にあると觀」たからこそ老子は母権制に憧れたのだろうと、橘は推測している。
「多くの人々は老子を無政府主義者と云ふ」ことに対し、橘は反論する。なぜならば「老子の理想とする小社會の中に『人間が人間を支配する行爲乃至組織』が行われる事を否認する譯にはいかないのである」からだ。かくて「老子に好意を持つ」橘は、「老子が此の小社會の中に當時明かに發生して居た父權制大家族を承認したものとすれば、彼は無政府主義者どころでなく立派な專制主義者であったとさへ言える」とした。
老子に魅かれる橘は、老子の理想とする「小国寡民」のなかに父権制大家族を渋々ながら認める代わりに、飽くまでも老子を「母權制の憧憬者であつたと想像」したいようだ。
ここでも橘は半分正しく半分間違っている、いや余りにも「小国寡民」に拘泥し過ぎだ。たとえば東南アジアの華人企業家大家族では、明らかに家長を頂点とする「父權制大家族」が行われてきた。だから上意下達で経営意思は貫徹され、一糸乱れぬ経営が可能となる。次世代が経営を継承した場合、彼が新しい家長として絶対権力を揮う。この場合、大家族の結束が崩れることは極く稀だ。だが家長の妻、いわば後継世代の母親が亡くなった場合、往々にして大家族の結束は崩れ、大企業とはいえ解体の道を進む。ここから父権と母権とは矛盾・対立するものではなく、相互補完関係にある――こう言えるのではないか。《QED》