――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(10)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

【知道中国 1884回】                       一九・四・念四

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(10)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 南京を歩く。「この北京城よりも廣域を抱有する九十五支里餘の南京城に圍はれた現在の南京」を、竹内は「單に『不潔』の二文字に終る」と小気味よく斬り捨てる。

 初期の明朝によって築かれた善美を極めた壮麗な宮殿も、太平天国軍によって破壊され尽くした。古来、新たな王朝を打ち立てるためには「戰火に依つて雌雄を決するまでだ。勝てば官軍だ。思う存分ぶッ毀はし置いてまた新しい善美の都を建設する。それが今に續く支那文化史中の特質ある一箇条だ」。敗れ去った「賊軍の雄圖遺骸を少しでも多く遺し置くことは、新しい官軍治世の邪魔をする」。だから「毀はせるものだけは毀はし置く」のである。

 「支那と日本とでは、確かに、慘忍に對する解釋なり聯想感は常識的見解がひどく相違してゐる」。考古学者や美術史家の仕事を考えているようでは、天下を我が物にできるわけがない。天下取りを前にしては「縁やゆかりなどはまかり間違えば何の役にも立たないこと」は世界共通ではあるが、この国では殊に突出している。「都合が惡るければ、親父だつて息子だつて遠慮なく方づけて了ふ」のである。そう、毛沢東だって。

 何事も斜に構えて皮肉っぽく眺めがちの竹内だったが、やはり乞食の大群には驚く。

 それは某地でのことだ。「恰度饑饉後であつたとは言へ、三百五百の急造乞食、その老幼男女を搗きまぜての列車襲?だ。特に人氣のあるのは食堂車だ。一望千里の土砂原・・。田畠はまばらなもんだ。車窓から飛ぶ一枚の銅錢。雲集は砂塵を巻あげて命がけの奮戰だ。どうせ幼な兒は踏潰される。そんな子供は一圓も支拂へば買えるのださうだ。だが、かうなると、この情景は乘客にとつて映畫的興味を強かそゝる」。

 そこに登場するや、両替商は大繁盛。両替された銅銭が「車窓から空中に飛ぶ。無數に飛ぶ。銀貨も飛ぶが、銀紙だらう。日本人よりも更に支那を莫迦扱ひしてゐるのは外國人だ」。車外に降り立った外人の「一人は銅錢を投げる。一人は寫眞を撮る、一ダース、二ダース。列車も心得たものだ、實に長つたらしい停車をやる」。

 なんとも残酷極まりない光景だが、竹内の目には「どうしたつてこの國はリンカーンやトルストイの國ではない。古來張作霖や呉佩孚の逐鹿場」としか映らなかった。自由も人権も関係なく、力のあるものが力を頼りに権力の階段を伸し上がる国なのだ。

 ところで「日本人よりも更に支那を莫迦扱ひしてゐる」外国人の、「一人は銅錢を投げる。一人は寫眞を撮る」との部分に立ち至って、日中戦争時の日本軍の残虐性を西欧社会に印象付けた写真――日本軍の爆撃によって廃墟と化したとされる駅構内の線路上で泣き叫ぶ幼児――が頭に浮かんだ。なんせ彼らは「日本人よりも更に支那を莫迦扱ひしてゐる」のだから、彼らのうちの1人が「一圓」の幼児を線路上に置いて「一人は寫眞を撮」ったのだろうか。それにしても、である。あの子は、その後、どんな人生を歩んだのだろう。

 漢口を歩く。街並みは「總て酷烈な脂照りに疲れ切ってゐる。斯く大河に惠まれた支那人も水泳はカラ駄目ださうだが、如何に水に親しむ私も、この濁流を見ては、水であるとは思えない」。小舟に乗って濁流を渡れば、対岸は武昌だ。武昌の象徴である黄鶴楼へ。「傳説は極めて優美だが、この三四十年以前に建てられた樓閣の礎壁や石階が、酷烈な太陽にさへ乾く暇なく、尿水に依つて濕り切つてゐることを以て、傳説どころの騒ぎではな」い。さぞや苛烈なアンモニア臭が漂っていたのだろう。竹内は小舟を駆って倉皇に退散した。

 時恰も「廣東の?介石は呉佩孚を目標として北伐軍を組織し、北上の途に在りと聽く」。ならば「古來幾多の開伏流血の跡を遺すこの武漢」も戦場となる。「濁流に染む人間の血。盛夏の太陽。支那もせめて戰爭は十年目位に節約してはどうか」。だが、ムリだ。《QED》


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