――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(7)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

【知道中国 1881回】                       一九・四・仲八

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(7)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 80ドルは瞬く間に「二弗五十仙」というから2ドル50セントに“大々出血大々々奉仕”である。動き出した「車上から振返ると、最うその姿は見えなかつた」。いったいニセモノの宝石の仕入れ値はいくらだったのか。

 竹内は「世界の人間中、恐らくは支那人より以上に、この吾々日本人にとつて親代々誘惑の地である」ところの蘇州に遊ぶ。「其處にはまた大日本帝國領事舘なるものがある。名こそは立派だが、山陰山奥の警察分署位」でしかなかった。

 ここでも「例へ目抜きの道路とは言へ限りなく狹ツ苦しい。支那の街、招牌の街、獸脂でぬるぬるした敷石道」である。

懇意な骨董屋の息子を案内兼通訳として街を歩いていると、前方から白旗を打ち振る小学生の一隊がやってきた。「排日示威運動だ。團長は路傍の一石に踏ン立つて演説を始めた」。そこで通訳を頼むと、「『あれは貴方の聽くものではない。吾々の思想を代表するものではない』と私の腕を?んで引つ張つた」。「あれは貴方の聽くものではない」とは、日本人の心証を害し恐怖心を抱かせるほどに過激な演説なのか。それとも専ら自国民に向けられた荒唐無稽な内容なのか。

毎度お馴染みの『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)の末尾近くで、林語堂「中国人はたっぷりある暇とその暇を潰す楽しみを持っている」と語った後、「蟹を食べ、お茶を飲み、名泉の水を味わい、京劇をうなり、凧を揚げ、蹴羽根で遊び・・・子供を産み、高鼾を立てる」など中国人による暇潰しを60種ほど挙げている。その43番目が「日本人を罵倒」である。

はたして竹内が蘇州で出くわした小学生は、暇つぶしの手段として「排日示威運動」を展開していたのか。かりにそうなら、少なくとも蘇州では小学生から暇つぶしに興じていることになる。すでに小学生にして暇つぶしとは・・・嗚呼、後世、畏るべし!

この国を「傳統の國」とは言うが、「惡く言えば自制力に乏しく、無批判」ということだ。その国に生きる「支那人が有つ一ツの通性は――この場合藝術や哲學は別として――自然そのものを客觀的に深く胸に味つてみるとか、ありのまゝをそのまゝ尚ぶとかではなく、人間に依つてひどく誇張されたものでないと悦ばないといふ通性である」。

竹内は、この「通性」が昂じて「自然を見るよりも、音を聽くよりも、絶えず詩文を書道とに依つて寧ろ自然ならざる自然に悦びを得やうとしてゐる」と考える。これをやや飛躍して敷衍するなら、中国人は詩文・書道・絵画などによって描き出されたバーチャルな自然を自然と捉え、目の前の自然を、そのバーチャルな自然に改造してしまう。これに対し日本人は飽くまでも目の前の自然に自然そのものを感ずる――ということだろうか。

竹内は中国を飽くまでも「Public Park」と捉える。そこでは「賭博は犬を見ることよりも容易である」。19世紀半ばに清朝打倒を掲げ太平天国を起こした洪秀全は「モーゼの十戒から別に六戒を造つた。その第六戒は賭博である」。だが、最盛時は南京を首都と定め長江以南を押さえ、一時は清朝打倒の勢いに乗った太平天国ではあったが、15年ほどで壊滅している。太平天国崩壊の主たる要因が賭博にあったかどうかは定かではないが、竹内は「この國では、賭博を禁止するやうでは、天下は我がものとはならないだらう」と直感した。

この竹内説を正しいとして1946年から49年まで続いた国共内戦に当てはめてみるなら、勝利した毛沢東は賭博を禁止せず、敗北した?介石は賭博を禁止したことになるようだが、どう考えても毛沢東も?介石も共に賭博を禁止したとは思えない。なぜならば「支那人生活では、賭博と人生との調和は頗る自由自然のやうに見受ける」からである。《QED》


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