――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(27)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
■「(三六)精神的缺乏」
「支那の憲政は、全く無準備、不用心の間に、施行せられた」ゆえに政治的混乱を招いているのであり、「共和的中央集權政治」とはいうものの「名ありて、實」がない。その背景を考えるに「支那人には、所謂る民族的自負心はあ」るが、「國民的精神なるものは、皆無」というわけではないが、「殆んど實在的勢力たるを得ず」。
「要するに支那は一國たるには餘りに廣大にして、特に中央集權的一國としては、ほとんど不可能の状態なり」。つまり「國民を統一す可き、總ての物質的缺乏と與に、又た精神的缺乏」を認めざるをえない。しかも悪いことに「物質的缺乏」はともあれ、「精神的缺乏」に至っては、「補充し得可き見込み」は皆無に近いのである。
■「(三七)財界より見たる無數の小獨立國」
「我が維新の大改革」をみても、紆余曲折を経ながらも「兵權と、財力と、全く朝廷に歸して、茲に始めて日本帝國が、一の國家として、其の統一を全うするを得」た。わが国の経験に照らすまでもなく、「統一に至緊なる物質的要素は、兵權と財力」である。
「顧みて支那を看よ。統一の基礎たる可き精神的或物を、缺乏するのみならず、統一の目的を大成す可き如上の二要素に於て、殆んど全く缺乏しつゝある」のだ。
じつは「支那人程、個人として利を言ふ者はなく、支那人程、個人として利に敏なる者はなし」。だが「國家的には、全く亂雜、不秩序、抛却、無頓着」である。たとえば貨幣だが上海の通貨が天津では通用せず、湖南の通貨が四川では役に立たないように「支那は貨幣に於ては、殆んど國家」とはいえない。「支那の通貨は、通貨としてよりも、寧ろ一個の物資として賣買、授受」されているのである。
「幣制の不統一に加へて、更らに甚だしきは、財政の不統一也」。古来、統治に関して「封建、郡縣の得失を論」じられてきたが、「中央政府は、全國の財政を統制するの力なき」ゆえに、「財政より見れば、何等の相違」はない。
■「(三八)空嚢の中央政府」
「支那は、個人必ずしも貧乏にあらず、唯だ政府貧乏のみ、政府必ずしも貧乏にあらず、唯中央政府貧乏のみ」。じつは「支那は年々借款によりて、其の經費を充用しつゝあ」るが、それは「宛も居喰者が、我が家産を切賣りして、其日を暮らしつゝある」ようなものだ。
「支那に於ては、幣制不統一と與に、財政不統一にして、中央政府は、空嚢を提げて、以て天下に號令しつゝある」わけで、地方政府当局者の横っ面を札束で張り倒すことができない以上、「其の號令の貫徹せざるも、亦た宜べならずや」。
■「(三九)兵士は食客」
「支那には國家の兵士なし」。「國家の兵士」が存在しない以上、中央政府が「兵權」を統一的に掌握しているわけがない。じつは「各地に存在する兵士は、何れも」各地を管轄する地方政府主宰者の「私有物也」。「彼等は我物として、兵士を召募し、兵士を訓練し、兵士を飼養」する。そこで転任に際しては、「我が什器同樣に、我が犬、猫、馬同樣に、其の兵士を引率して赴く」のである。
彼ら地方官が財を貪るのは「徒らに其の肉慾を逞うせんが爲」と同時に、「其の勢いの根源たる、兵士を飼養せんが爲め」なのだ。
中央政府には財力なく「兵權」もない。ならば「中央政府が、一片の空文を以て指揮命令」したところで、地方官隷下の兵士が動くわけがない。かくして中央政府が自らの指揮命令下に統一された国家の軍隊――国軍を持つことは絶望的ということだ。《QED》