――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(25)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
■「(二八)今猶ほ古の如し」
徳富は「現時の支那を見よ、春秋戰國と果して何等の差異ある乎」と問い掛けた後、「要するに支那の(正統とされる歴代王朝の正史である)二十四史は、同一の筋書を、各個各種の役者が、之を演じたる記録のみ」であり、記録内容の枝葉末節に違いはあるが、根本においては同じだ。「二十世紀の今日も、一皮剥ぎ來れば、春秋戰國時代の秦、楚の交鬪を、繰り返しつゝあるにあらずや」。
やはり「日本人が、支那を研究せざるを遺憾」とするが、じつは「支那人彼自身が、其の研究を閑却するを、嘆惜」しないわけにはいなかい。「彼等現時の状態は、牛に騎りて牛を尋ぬる者」のようなものだ。
たしかに国共内戦で蒋介石に勝利した毛沢東による統一から、反右派闘争、大躍進、文革、対外開放、さらには一帯一路の現在までを背景とする権力闘争を振り返って見ると、たとえば毛沢東は始皇帝に類するし、反右派闘争や文革は焚書坑儒に似ているところからして、「今猶ほ古の如し」ではある。
■「(二九)楚材晉用」
近くは太平天国の乱を鎮め清朝を救った曾國藩兄弟、末期の清朝を支えた李鴻章、辛亥革命を指導した黄興、宋教仁、さらには毛沢東に劉少奇・・・春秋時代以来、「其の理由の何れにあるにせよ」、古の楚に当たる長江中下流域一帯は「政治方面に於て、人材を産したるのみならず、思想及び文藝の上に於て、尤も其の異彩を放」つほどに人材の宝庫である。
■「(三〇)犬の骨折鷹の功名」
辛亥革命を起こしたのは南方の革命派だが、「北方の武斷派の爲めに」革命の果実は奪われ中華民国の実権を握られてしまった。これこそ「犬の骨折鷹の功名」というものだ。このままでは「到底南北統一の見込は立ざる可し」。「此儘ならば、唯だ睨合、打合、敲合の情態にて、推移するの他なからむ歟」。
ということは徳富は、統一政府の実現はムリという前提に立ったうえで日本の大陸政策は立案・策定されるべき、と考えていたということになる。
■「(三一)支那人の支那知らず」
「日本人が、支那を知らぬのみならず、今日の所、支那人も亦、支那を知らぬが如し」。彼らは「支那特有の民風國俗」を「無視して、一概に他を模倣せんとす」るから間違うのだ。「日本人の支那に對する、一大誤謬は、日本を以て直に支那を律すること」にあり、彼らの「自ら陥る誤謬も、亦た支那と日本とを同一視すること」にある。
「惟ふに支那を禍したるは、日本の維新改革史より大なるはなかる可し」。なぜなら維新改革が「容易に出來したるを見て、支那の改革も亦た、手に唾して成就す可し」と誤解してしまったからだ。だいたい日本とは違う。根本的に違う。「(維新)當時の日本は面積に於て、支那の約三十分一にして、人口に於ては、約十分一に過ぎず」。人口でも面積でも「日本一國が、支那の一省と相匹する程」であることを、先ず考えておく必要がある。
「支那に比すれば、取扱ふに手頃ろなる、日本に於てさへも、改革の業は、今日より思ふ程に容易」ではなかったことを思い起こせば、彼らが「一朝にして帝政を廃し、一朝にして憲法を布き、一朝にして議會を設け、而して坐ら其の大成功を見んと欲す」などということは、「餘まりと云へば、蟲の善き話ならずや」。
つまりは自ら苦しまずして、他国で成功したモデルを持ち込めば成功するだろうなどという“舐め切った態度”“腐り切った根性”――徳富の指摘は、今も生きている。《QED》