まだ「台湾」という名称がタブー視されていた1967年、呉建堂氏は同好の士11人で「台北歌壇」を立ち上げ、本年は創立50周年を迎えた。4月23日に台北市内の亜都麗緻大飯店に約100人が集って50周年大会の祝賀会を催した。
蔡先生は歌が大好きだったが、請われると喉をつぶしてしまったのでと断られるのを常とされていたが、この祝賀会で歌を請われると「狼の歌」を歌われたという。
また、創立50周年記念特集号と銘打って396ページにおよぶ『台湾歌壇』(第26集)を刊行した。記念特集号の巻頭言に、蔡代表は「50年は気の遠くなるほどの歳月だ」と記された。また「私たちは日本の伝統的な和歌を、その和歌の精神を、忘れる事無く、過酷な台湾の境遇に耐えつつも脈々と謳い続けてきました」とも記された。
「台湾歌壇」は解散の危機に何度か見舞われたと漏れ聞くが、蔡先生が代表に就かれてからは会員が増えはじめ、毎月の歌会には50人ほどが参加するようになった。若い世代も増え、多いときは70人を超すこともあった。蔡代表は「先細りの歌会に、台湾人、日本人の台湾人、日本人の若い世代の会員が多くなったことは、真に心強い限り」と記し、「希望が見えます」とも述べられている。
実は、蔡焜燦先生が「台湾歌壇」について書かれた原稿をいただいたことがある。東日本大震災が起こった2011年のことだ。ある単行本に寄稿するため7月の半ばにお送りいただき、何度か推敲された。しかし、その後にまったくテーマを変えて書き直されたことから、未発表となっていた。
もともと題は付けられていなかった。遺稿となったこの原稿に「台湾歌壇のこと」と付してご紹介したい。
台湾歌壇のこと
台湾歌壇代表 蔡焜燦
日本語のすでに滅びし国に住み短歌(うた)詠み継げる人や幾人 孤蓬万里(『台湾万葉集』)
この和歌の作者の氏名を見ずに和歌だけを読んだ読者は、ほとんどが「ああ、この歌は外国の人が外国で詠んだ歌だなあ」と思ふに違ひない。
今、日本以外で三十一文字の和歌を日本語で詠む国はいくつあるだらうか。ブラジル、台湾、韓国……。ポーランドでは大学の日本語学部で詠んでゐるさうで、フランスには日本の先生方によるフランス語訳の名作があり、アフリカの人々の心を打つやうな作品を、台湾の歌人達も感動して拝読したことがある。
さう、冒頭の歌は台湾の「台湾歌壇」の創始者、孤蓬万里こと呉建堂氏の詠まれた歌だ。
呉氏は戦前、台北の旧制台北高等学校理乙に在学中、『万葉集』に魅せられて医学と文学の二足わらじ(呉氏自称)を履いて半世紀を過ごされた方である。呉氏の経歴を簡単に述べると、1926年(大正15年)台北生れ、台北帝大医学部卒、熊本大学医学部博士、剣道8段、第3回世界剣道選手権個人3位(1976年)、『台湾万葉集』で菊池寛賞受賞(1996年)、宮中歌会始御陪聴に招かれる(1996年)等であるが、1998年に帰幽された。
呉氏は終戦後もずつと和歌の勉強をしてゐた。そして、数人の同好の人々とひそかに和歌の勉強会をやつてゐた。当時、おおつぴらに、殊に日本語の勉強会等はとても出来ない時代になつてゐた。時が経つにつれだんだん緩やかになり、漸く和歌が作られるやうになつて初めて「台北歌壇」を同好の士11人で立ち上げた(「台湾」と云ふ名称は未だタブーであった)。1967年のことである。
大正二桁、昭和一桁生れの台湾人は、生れながらの日本人で、国語で物を書き、国語で思索し、果ては寝言までが国語だつた、所謂「日本語族」である。その人々が日本の短詩型文化にとりつかれて会を作り、和歌を楽しむことは常態である。また歴史的仮名遣ひを用ひ、日本語の文語で和歌を詠むといふことは極く自然なことであらう。
終戦から66年、「台湾歌壇」の前身「台北歌壇」が成立してから44年、1968年に台北歌壇歌誌第1集発行から通算152集、この44年来の投詠者は500人にのぼる。
現在、会員は百人弱であるが、若い会員の吸収に努力してをり、平均年齢もだんだん若くなつてゐる。この歌人達が万葉の調を大事にして詠作を続けてゐるのは、呉氏の「万葉の流れこの地に留めむと生命(いのち)のかぎり短歌(うた)詠みゆかむ」の遺詠の影響大なることは否めない。
呉氏の1996年の宮中歌会始に招かれた時に作られた歌2首書き添へて筆を擱く。
宮中の歌会始に招かれて日本皇室の重さを思ふ 国思ひ背の君思ふ皇后の御歌に深く心打たるる
尚、本年3月11日の東日本大震災に際して台湾の人々が非常に関心を持ち、救援物資、義捐金等を送つて嘗ての日本の同胞から感謝されてゐることもさることながら、66年来、すでに異国になつてゐる台湾の人々の大震災に際して詠んだ和歌も、日本の人々の感動を誘つてゐる事実を書き留めておきたい。
国難の地震と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます 蔡焜燦