王 明理 台湾独立建国聯盟日本本部委員長
一、正月料理
私が子供の頃、私の家の正月を迎える準備は本当に大変だった。冬休みに入る頃から、少しずつ年の瀬を迎える気分がただよい始め、年末に向けて、大掃除や正月料理の準備をこなしていくのが、家族行事のようになっていた。父も率先して掃除をし、母に言われた料理の材料を揃えるために横浜の中華街や御徒町に買い出しに出たりしたものだ。
暮れも押し迫ってくると、正月料理の準備が始まるが、母の監督の下、私と姉もずっと手伝いをしたのを憶えている。
なぜそんなに忙しいのかと言えば、それは両親が日本と台湾の二つの文化を両方とも大事にしようとしたからだ。
私の両親が育ったのは台湾の古都、台南。両親が生まれたのは大正末期で、その時代、台湾はもう30年位、日本の植民地であったから、生活もかなり日本の影響を受けていた。台湾人は清朝時代の文化の名残りと日本文化をうまく生活の中に融合させていたようだ。
戦後、日本で暮らし始めた両親は、特に意識せずに、台湾から持ってきた習慣と日本式の生活をミックスさせて暮らしていた。そのなかで育った私は、子供の頃、どこが台湾式でどこが日本式なのかはっきり分からないこともあった。
しかし、食事だけは日本料理、台湾料理とそれぞれの個性が明確だった。文化のなかで食文化は一番最後までそのオリジナリティーを維持していくものだと言われているが、私はまさにそれを感じて育った。
私が小学校に上がる頃から、正月には父が大学で教えているゼミの学生さんたちが年始に来るようになった。その学生たちは卒業したあとも近況報告をしに、また結婚すればお嫁さんや赤ちゃんの顔を見せに来る。年々来客の数は増え続け、正月の二日から五日くらいまで、たいそう賑やかに過ぎたものだ。
「先生の家に来るまで、中華料理といえば、ラーメンと餃子しか食べたことがありません」という学生たちに本格的な台湾料理を食べさせるのが父の楽しみであった。日本では三が日は主婦の骨休めのために、暮のうちにお節料理をお重箱に詰めておくが、台湾では正月は普段以上のご馳走を食べるのである。母にとって、お正月は一年のうちで一番忙しい時であった。料理はフルコースの台湾料理であった。
一、オードブル(クラゲの酢の物、ピータン、自家製のソーセージ、キュウリの酢の物) 二、蒸し鶏 三、ホーコー鍋(火鍋)―海老、肉団子、鶏肉、イカ、白菜、春雨、椎茸、茹で豚など 四、紅焼魚(鯛の唐揚げにあんかけしたもの) 五、肉団子 六、あわびのスープ 七、ビーフン。
メニューは年毎に少しずつ変わるが、とにかくフルコース。「先生の奥さんのビーフンを食べないと正月が来た気がしないんですよ」と言われ、母も嬉しそうであった。
しかし、その準備たるや生半可なものではない。まずはスープを取ることから始まる。母が、業務用の大きな深鍋に鳥のガラをいれ、煮込みはじめる頃から、姉と私は台所の奴隷になる。
まずは乾物類を水で戻す。戻した干し椎茸、干し貝柱、干し海老、そして、基本的な野菜、しょうが、にんにく、長ネギ、人参などを切ることから始まる。台所が狭いので、私たちはリビングのテーブルの上にまな板をのせて切る。一番下っ端の私は、切る以前の作業だ。にんにく潰し、人参の皮むき、サヤエンドウの筋取り。私より六歳年長の姉は、包丁を持って私より難易度の高い仕事に挑戦する。時折、せん切りが太いだの、みじん切りが粗いだのと、台所から母の声が飛ぶ。
そのような、母に言わせれば“誰にでもできる仕事”は私たちにまかせて、母は鶏一羽を蒸したり、干し鮑を戻したり、海老やイカに飾り包丁を入れたり、熟練の技を生かした作業に精を出すのだ。
さらに私たちを忙しくさせるのは、同時に行う日本式のお節料理の準備だ。父も母も、日本に住んでいるのだから、日本式のお正月もしなければならないと考えていた。たぶん、娘たちのために、常識的な日本の生活も教えなければいけないと思ったのだろう。
ごちゃごちゃと中華料理の材料が混みあっている台所で、お節料理の準備も始まる。お煮しめ、黒豆、田作り……。母の頭に浮かんだ台湾料理と日本料理の断片、断片を、姉と私はひたすら、皮むき、せん切り、みじん切り。タケノコ一つとっても、お雑煮に入るもの、スープに入るもの、炒め物に入るもので切り方が違う。自分のしている作業が何の料理の何になるのか分からないまま、とにかく母の監督の下、ひたすら作業し続けたものだ。豚肉を切る、もちを切る、人参を花形に切る、かまぼこを切る。鶏ガラスープの隣で、こんぶと鰹節でダシを取る。栗きんとんを作る、肉団子を作る、サトイモやこんにゃくを煮しめる、中華クラゲの酢の物を作る、酢を使ったついでに大根のなますを作る……。下準備ができたものは、台所の隣の風呂場の蓋の上に並べられていく。北向きの風呂場は調度よい冷蔵庫の役目をしていた。あの頃は暖房と言えば、ブルーフレームの石油ストーブ一つきりで、足元がスースーしていたのを思い出す。でも、火を使っている母はかっかと熱く、新年が迫ってくる焦りから、たいてい二、三度ヒステリーを起す。姉や私もいいかげん下働きに嫌気がさしてき��童�欧鵑�鮖呂瓩襦��或佑�擇い鮖呂瓩襪函�磴�鶻��蘆膾曚帽澆蠅討�襦I磴和腓�弊爾鮟个垢錣韻任呂覆い里法∋笋燭舛鷲磴梁�擦�鶻��藏瓩鼎い討�襪函△發Δ修譴世韻埜�鬚弔阿漾▲ぅ薀ぅ蕕靴匿佑砲△燭辰深��鮹僂困�靴�廚辰燭發里澄��
だいたいの準備が済んで、大晦日の晩になると、お節料理を重箱に詰める仕事が私に与えられる。これが私の一番好きな仕事だった。様々なものが出来上がって、冷蔵庫や戸棚や風呂場や台所のあちこちに置いてある。この状態を台湾語では「ブーサーサー」という。そのブーサーサーの中から、重箱に詰めるお煮しめや昆布巻、かまぼこなどを取り出して、すっきりと塗り物の箱に詰めていくのは一種の快感だった。
ここまでくれば準備も万端と言いたいところだが、わが家の大晦日はまだまだ一山あるのだ。まず、大晦日の忙しい中、父は台湾の風習に従い、夕食にご馳走を食べたがる。簡単に年越し蕎麦で済ませようという母と、父との間で毎年ひと悶着ある。一度だけ、蕎麦で済ませたことがあったが、父は終始不機嫌で、それが家族にも伝染し、いくら私が冗談を言っても、しらけた気分は直らなかった。母までもが物足りなさそうで、翌年からは再び、大晦日にご馳走を食べることになった。それでも、決まって、大晦日の夕方頃、「本当はお蕎麦で済ませられるものを」と母は言い出し、父と一戦を交えるのだ。あれも一つの儀式みたいなものだったろうか。