王 明理 台湾独立建国聯盟日本本部委員長
二、土豆仁湯
さて、お腹もいっぱいになって、紅白歌合戦が始まる頃、またまた一仕事、台湾のお汁粉作りが始まる。土豆仁湯(トウタウリントゥン)と呼ばれるそのお汁粉は、小豆ではなく落花生を使う。生の落花生は食材として一般的ではないので、それを手に入れるのがなかなかやっかいである。たいていは、最寄り駅の東長崎駅の商店街の豆菓子屋に頼んで、殻から外して炒る前の生の落花生を分けてもらってくる。他の食材を買うときと同様、こういうことに関しては、父は非常に協力的で、嬉々として率先して行動したものだ。
土豆仁湯の作り方だが、まずは落花生の皮を剥くことから始まる。ところが、生の場合、皮は実とぴったりくっついていて、こすっても剥けない。そこで、二時間ほど、お湯につけて、ふやかしておく。
父は夕方ごろから、大きなボールに落花生とお湯を入れて、この準備を始める。母はこの土豆仁湯作りにはノータッチだ。
「なにもこんな忙しい時に、よりにもよって、土豆仁湯なんて食べなくたっていいのに」と一言文句を言う。
「台湾の風習だ」と父が言い返すと、
「あら、正月に土豆仁湯を食べるのは、あなたの家独自の習慣でしょ。私の実家では、正月じゃなくて、もっと暇なときに作ったわよ」
なにくれと年の瀬の忙しさの中、母は一触即発といった感じでテンションが上がっている。それでも、土豆仁湯をあきらめられない父は、母の手を借りず、娘たちに手伝わせるのだ。
夕方から、二、三時間、ボールの中で湯に浸かった落花生は、紅白歌合戦が始まるころには、ふやけて皮がぷよぷよとしてくる。それを三等分にしてボールにいれ、それぞれの前に置く。父と姉と私は落花生の中に両手をつっこんで、揉むように、皮を擦っていく。三人揃って、顔はテレビのほうに向け、「こんな歌は聞いたことがない」だの、「この組は白の勝ちだ」だのと言いつつ、両手はボールの中に入れて、ぐにょぐにょと動かし続ける。やがて、大方の皮が遊離したところで、一粒ずつ、指先でこするように皮を剥いてゆく。右手の中指と人さし指と親指で豆を擦る。皮のとりきれない豆はもう一度お湯の中に戻す。
全部で一キログラム。このころまでに、指先は長時間フロに浸かっていたときのように、しわしわになっている。それに、生の落花生がふやけていくときの、青臭い匂いで鼻腔から頭の芯までがズキズキし始めている。早く終わりたい一心で、私は猛烈な速さで指を動かす。皮を剥かれた落花生の実は、真っ白だ。おつまみ用の炒った落花生からは想像もできないほど初々しく美しい。
ようやく、全ての豆から皮が剥かれると、今度はその落花生を二つに割る作業に入る。二つに割らないと火のとおりが悪いからだ。二つは互いにしっかりと抱きあうように繋がっていて、容易には離れようとしない。指先に力をこめて割る。これで下準備はオーケー。その間、母は時折テレビを覘くくらいで、大方は台所で雑煮の準備や料理の下ごしらえの続きをしている。
いよいよ、真っ白な落花生が煮られるときだ。ここからは、小豆のお汁粉を作るときと同じ要領だ。豆を大鍋に炒れ、たっぷりの水で煮る。二時間から三時間。豆が柔らかくなったのを確認して、砂糖を入れる。
「戦争中は砂糖がなくてサッカリンを入れたものだ」
と、父が言うが、これも毎年のこと。
でき上がりに隠し味に少々の塩を加える。紅白歌合戦が終わって、除夜の鐘を聞きながら早速食べることになる。
お椀に入った土豆仁湯は透明に近い汁に落花生から出た油が浮いている。煮崩れることもなく形を残しながらも、落花生は柔らかくふやけていて、口に入れると、とろりととろけるようだ。小豆のお汁粉よりもさっぱりとして、それでいて、甘さに深みがあり、どことなく香ばしい。
その美味しさと満足感で、豆を剥いていたときの苦労も忘れてしまう。母も一緒にふうふう言いながら啜る。
「ほらみろ、うまいだろ」
父は得意満面である。
こうして、大晦日は終り、新年は日本式のお雑煮とお節料理で始まる。元旦には飛び入り以外の来客はない。家族で百人一首や花札をして遊ぶ。そして、二日からは、来客の嵐、多いときには下のリビングに入りきらず、二階にも座卓を出して、一卓設ける。姉と私はお運びさん兼皿洗い。ほとんどの来客が男子学生や卒業生なので、立ち働いていたほうが、話をしたり相手をしたりする気恥ずかしさから逃れられる利点がある。
たくさんの来客を迎えて母の料理でもてなしている時の父は、本当に満足そうで、客が料理を誉めると、自分でも「東京中の店で、うちより旨いところはないよ」と相槌をうつ。母も台所から出たり入ったりしながら、嬉しそうに話に加わっている。
こんなふうに、私の子供時代の正月は毎年、充実して幸せなうちに過ぎていった。