【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(十)

【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(十)

国民新聞より転載

王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長 

台湾人元日本兵士の補償問題

もう一つ、王育徳が大きな役割を果たした仕事として、「台湾人元日本兵士の補償請求運動」がある。

先の太平洋戦争中、日本兵として二十一万人もの台湾人青年たちが出征し、戦死者は三万人、戦傷者はそれ以上であった。ところが、敗戦により、日本が台湾を放棄したために、台湾人は日本から恩給、障害年金などを受け取れなくなった。戦時中強制された軍事郵便貯金や未払い給与もいまだ払われないままである。一九五二年の日華平和条約で、台湾人元日本兵に対する補償を両国間で処理することが決められたが、日本政府からの何度かの打診に対し、中華民国側は全く対応しなかった。結局、一九七二年、日本からの国交断絶通告に伴い、日華平和条約は失効し、台湾人元日本兵は救済される道を全く閉ざされてしまった。

王がこの問題に立ち上がるきっかけとなったのは、中村輝夫さんの発見である。

一九七四年十二月にモロタイ島で元日本兵、中村輝夫氏が発見されたが、彼が台湾原住民の出身であることが判明したために、日本政府は労うこともなくインドネシアから台湾へ移送を決めた。一九七二年に発見された横井庄一氏や一九七四年に発見された小野田寛郎氏の時の国を挙げての大歓迎ぶりとは雲泥の相違であった。

中村さんは、戦争中、「高砂義勇隊」に志願して南方へ送られ、ジャングルの中で、戦後三十年間、日本兵として生きつづけたのである。毎朝、皇居へ向かって挨拶をしたあと、体操をし、三八銃を手入れするのを日課にしていたという。

そんな“日本兵士”に対し、日本政府は労いもせず、未払い給与と帰還手当わずか六万八千円を払って、台湾に送り返したのである。中村さんが故郷に帰ってみると、敵であった中国人が支配者となっており、彼の全く知らない北京語が国語になっていた。


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