1. はじめに
「馬祖の旅」(4)は最終回ですが、ちょっと危ない話をまとめてみました。キーワードは「軍事」、「国民党」、「選挙」です。いかにも「危ない」感じがしませんか?でも、ご心配なく、私がツアーとインターネット上で見聞きした程度の話ですから、「特定秘密保護法」に触れる筈がありません。
2. 反共の砦
私もそう思ったのですが、「馬祖の旅」(1)に地図を貼りつけたところ、多くの方から台湾島からはるか離れて、大陸にへばりつくような島々がなぜ台湾領なのかという疑問を呈されました。馬祖列島だけでなく、金門島然り、更に今回初めて知ったのですが、烏坵(うきゅう)と言う島もありました。いずれも大陸の領土と言ってもおかしくないような場所です。
これらの島々は「反共の砦」として位置づけられます。これらは恐らく1949年(中国共産党軍が中国国民党政府軍を打破、中華人民共和国が建国された年)までは間違いなく中華民国の領土だったと思います。その後は中国大陸を支配した中華人民共和国の領土かと言えば、実効支配しているのは中華民国と言うことになるのでしょう。中共に大陸を追われた中華民国は首都を南京から台北に移し、台湾を実効支配し、ここに中華民国亡命政権を樹立したことになります。そして中華民国は1971年国連のアルバニア決議により、国連の常任理事国の座を失い、国連を脱退し、今日に至ります。
蒋介石率いる国民党政府軍は「大陸反攻」を標榜し、大陸の失った領土を奪還する機をうかがい、上記3島に軍事拠点を構えました。
3. 金門島
金門島は福建省厦門市の海岸から2.1�先に、大金門島、小金門島など12の島々から成立っています。1949年人民解放軍は国民党政府軍を大陸から駆逐した後、中華民国の最終防衛ラインである金門島に2万の人民解放軍を上陸させました。迎え撃つ国民党軍は林保源の指導の下、海岸線に塹壕を掘り、トーチカを築き、地雷を敷設して備えました。人民解放軍上陸後、林保源の巧みな作戦で、彼等を殲滅しました。これを「古寧頭の戦い」と言います。この林保源と言うひとは、実は日本人で本名は根本博という帝国陸軍の元中将です。この方は「戦神(いくさがみ)」と呼ばれて共産党軍に恐れられたそうで、この「古寧頭の戦い」以降、中共は台湾の国民党政府軍を追い詰めることが出来ず、今日に至っています。連戦連敗であった国民党政府軍が「古寧頭の戦い」で勝利し、人民解放軍を台湾島に寄せ付けなかった裏には、元日本軍の将軍(戦神)がおられたということが公になったのは2008年ということです。
蒋介石は根本元中将帰国後、日本人将兵による軍事顧問団「白団」を結成したと言います。
金門島ではその後1958年に再び人民解放軍との間で砲撃戦が行われましたが、人民解放軍の意図は達成できませんでした。この砲撃戦で大陸側から撃ち込まれた砲弾の数は470,000発と言われ、後に金門島ではその砲弾の弾殻を利用して「金門包丁」を製造したという話はご存知でしょう。私も昔一本買ってきました。
金門島は1956年以降馬祖列島などと共に軍事拠点として軍政が敷かれ、民間人は近づくことが出来なかったが、戒厳令解除後、民間人も立ち入ることが出来るようになり、軍事施設も今では観光資源の一部になっています。
4. 烏坵郷(うきゅうきょう)
烏坵郷は金門島の北130�、馬祖列島の南130�、金門、馬祖のちょうど中間に位置する3つの小島からなり立っていますが、管轄は金門県です。
この島は1943年〜1945年に一時日本が占拠したことがあるそうですが、1949年国民党政権崩壊後無政府状態であったが、1954年国民党は烏坵を反共救国の前線基地とし、戒厳令解除の時まで軍政下に置きました。
周辺海域は漁業資源が豊富でしたが、戒厳令解除後、大陸からの漁民が大挙して押し寄せ、ダイナマイト漁法(ダイナマイトを水中で爆発させ、その衝撃で気絶したり、死んだりした魚を獲る漁法で、日本では禁止されている)を行い、漁業資源は枯渇してしまい、一時は1000人以上いた漁民もいなくなり、過疎の島になったと言います。
5. 馬祖列島
上記の金門、烏坵と同じ流れで言えば、馬祖列島は1950年国民党政府により大陸反攻のための重要な軍事拠点にされた。馬祖列島と金門島との違いは戦場になったか否かの差だそうです。金門島は戦場になったが、馬祖列島は戦線ではあるが、戦場になったことはなく、これも媽祖様のお蔭であると言います。馬祖列島には築100年の建物が残り、これらの建物は民宿になっている。さらに国定公園があり、軍、政府、国民党との関係から資金は潤沢とのことです。
本島から多くの北京語を話す兵隊が駐屯し、一時は住民より兵隊の方が多かったこともあったらしい。住民は元来台湾語(閩南語)、北京語を話さず、もっぱら「閩東語」を話していたそうですが、兵隊相手の商売の必要性に迫られ、老いも若きも皆北京語を話すようになったそうです。
馬祖列島は軍事基地ですから一般の人々は立ち入ることが出来ませんでしたが、1994年入島制限が解除され、観光地化されました。
今回のツアーで我々は多くの観光資源(軍事基地)を目にすることになりました。いくつかを紹介しますと、まず最初に訪れたのが北竿島の「八八坑道」(No.77で触れました)で、これは戦車を格納するための坑道でしたが、今は老酒の酒蔵になっています。北竿島で宿泊した「地中海民宿」では、食堂の壁に「大陸反攻」を目指していたころの写真が沢山貼ってありました。中共側がばらまいた宣伝ビラ、国民党政府側の宣伝ビラ、戦闘機で亡命してきた「反共義士」の写真、毛沢東語録の文章など、簡体字の資料、あるいは正体字の資料など色々ありました。毛語録資料には「中国人は気骨があり、能力もあるので、遠くない将来世界のレベルに必ず追いつくであろう」なんて書いてありました。そして地中海民宿を一歩外へ出ますと、石造りの家が立ち並んでいましたが、至る所に「反共標語」が石に彫り込まれていました。たとえば、「最後の勝利を勝ち取ろう」、「軍民合作」、「光復大陸」、「大陸の同胞を救い出そう」、「蒋総統萬歳」等々。
南竿島に戻ってから色々な所でトーチカ(機関銃や砲などを備えたコンクリート製の堅固な小型防御陣地)を見ました。大陸に面した崖には海側に向けられた砲が残されており、壁には敵艦を識別するためだろうか、艦の図が描かれていました。一歩外へ出ると至る所に「地雷注意」の警告が書かれており、ちょっと緊張します。南竿島で見た一番大きな施設は「北海坑道」でした。これは哨戒艦基地として花崗岩の岩盤を人力でくり抜いて作った水道です。工事は820日間、昼夜を問わず行われ、全長は700mあり、一周するのに30分は掛るとのこと。我々もボートに乗って一回りしました。
しかしこの基地は潮の関係で実際には使われなかったそうです。何という無駄。否、観光資源の開発を見込んだ上での計画でありました(笑)。
6. 小耳にはさんだ選挙システム
話は違いますが、かねてより疑問に思っていたことは、台湾の人口の85%は台湾人意識を持ち、残り15%がいわゆる外省人(1949年前後に中国大陸から渡って来た人)意識と聞いておりましたので、選挙をすれば総統選挙であろうと立法院選挙であろうと台湾派の候補者が勝つと思われますが、実際はその逆の結果になります。2000年の総統選挙も2004年も民進党の陳水扁候補が勝ちましたが、何れも僅差でした。2008年、2012年の総統選挙はいずれも国民党の馬英九候補が大差で勝利しました。一体なぜでしょう。噂はいろいろありますが、私は確たる証拠がありませんので、いい加減なことは言えません。
しかし、聞く所によりますと、国民党は台湾全土に、草の根レベルのしっかりした選挙システムを構築していて、他の政党は絶対に勝てないのだと言います。地方レベルの選挙(例えば里長選挙)では、然るべき人が見張っていて、誰が誰に投票したか、全て分かってしまうとの事。さらに選挙の日程や、投票時間などきめ細かくその時々の情勢に合わせて調整するそうです。その他、実弾も飛び交うと新聞も報道しています、
日本では期日前投票や自分の居住する地域外(さらに海外)からでも投票が可能ですが、台湾では自分の戸籍のあるところの投票所でしか投票できないそうです。制度改正の動きはあるようですが、台北で仕事をしている人で、戸籍が馬祖にある人は馬祖の投票所でしか投票できないと言います。大陸で商売している人は高い航空運賃を覚悟しないと投票できないということは、ある程度の資金的余裕ある人でないと投票できません。あるいは誰かのサポートがあれば別ですが・・・・。
島(連江県)には仕事がないので馬祖の若い人々は皆台北などの都会に就職するが、戸籍は連江県に残したままにするそうです。理由は選挙のためだそうで、選挙の際には多額のお金が動くそうです。
7. おわりに
「馬祖の旅」を4回に分けて報告させていただきました。最後に変な話も書きましたが、報告の趣旨は只一つ、馬祖列島は素晴らしい所でしたので、私自身折あらば、もう一度行きたいと思いますが、皆様も機会ありましたら是非訪ねてみてください、ということです。
富士山は世界遺産に登録され、観光客が増えたそうですが、同時にマナーの悪い登山者もいるそうで心配です。馬祖列島は大陸の近くで、大陸からの観光客も来るようですので、マナーが気がかりです。しかし、聞く所によれば、中国では「旅遊文明行為指南」(旅行マナーの手引き)なる文書を作成して海外旅行者に配布しているとのことですので、杞憂かもしれません。
馬祖列島は素晴らしい所でしたので、いつまでも自然が保たれ、美しい媽祖巨神像がほほ笑んで下さることを切に願っております。