傳田晴久
◆はじめに
「馬祖の旅」(3)は馬祖列島の南竿島にある「媽祖巨神像」を中心に報告させていただ
きます。
前号で触れましたように、今回のツアーで媽祖巨神像に初めて出合い、私は大きなショ
ックを受けました。私は媽祖様の前で立ちすくんでしまいました。ツアーは団体行動でし
たので、いつまでも立っているわけにもいかず、そこを立ち去りましたが、もし、一人で
来ていたなら、何時間もそこに立っていたかもしれません。そして、昔の、50年ほど前の
体験を思い出しました。
◆当時(十世紀ころ)の航海
媽祖様は航海の安全を守ってくださる海の女神様です。当時(今から1,000年以上前)の
航海とはどんなものだったでしょうか。
素人知識ではありますが、現在の船はGPS、ジャイロコンパス、レーダーシステムな
どを装備し、強力なエンジンを搭載しているうえに、気象情報、通信システムに支援され
ての航海です。それでもときどき痛ましい事故に遭遇しています。これらの装備が開発さ
れたのは20世紀になってからです。羅針盤は11世紀の中国の文献(真貝日誌送)に初めて
出てくるとウィキペディアは述べています。
媽祖様が生まれたのが960年と言いますから、当時の船は羅針盤すら持っていなかったこ
とになりますし、いわんや天気予報等あるはずもありません。長老のお見立てはあったか
もしれませんが……。
そのような状況下で、中国大陸の太平洋に面した東海岸を航海するということはたいへ
ん危険なことであったでしょう。
台湾との関係で言えば、大陸の東海岸から台湾島までは210kmあると言います。今でさ
え、装備がしっかりしている空の便、船の便がしばしば欠航するというのですから、この
台湾海峡は決して穏やかな海ではありますまい。大陸から台湾までやって来るのはきっと
命がけの大冒険だったと思われます。
参考までに大航海時代(15世紀から17世紀前半)と言われる頃の出来事を見ますと、コ
ロンブスがアメリカ大陸に到達したのが1492年、バスコダガマがアフリカの喜望峰を回っ
たのが1497年、マジェランが世界一周したのが1522年、ポルトガル人が台湾島を見て“Ilha
Formosa”(麗しき島)と言ったというのが1544年だそうです。
日本人か中国人か分かりませんが、倭寇/和寇と言われる集団が活躍したのは13〜16世
紀だそうです。媽祖様が生まれて後、数百年経っています。
◆媽祖様への感謝の心
自然の猛威に対して無力な我々人間は、神仏に対して祈るしか手立てはなかったのでは
ないでしょうか。羅針盤もない時代に、風力と人力しか動力のない時代に、木造の船で大
海原に乗り出す人々の勇気は大したものですが、それには神仏のご加護を信じる心があっ
たものと推察いたします。
偶像崇拝可否云々の考えもあるでしょうが、何らかのご神体(お守り)と共に航海した
のではないでしょうか。そして、荒波、暴風雨を何とか乗り越え、無事に目的地に到達で
きれば、神仏に感謝申し上げるのは自然な成り行きでしょう。
台湾に媽祖様(の像)と共にたどり着いた人々が感謝の心を込めて媽祖様の廟を建立
し、媽祖様をお祀りしたことでしょう。やがて馬祖様は航海のみならず、あらゆる願いを
叶えて下さる万能の神様となり、遂に台湾には2000もの廟が出来たということです。
◆媽祖巨神像(媽祖巨神像)
南竿島には巨大な媽祖様の立像があります。高さは世界一で28.8m、365個の花崗岩の塊
を積み上げて作られているそうで、これは365日毎日の平安を祈るという意味とのこと。私
が住んでいる台南の安平と言う港にある林黙娘公園に矢張り巨大な媽祖像がありますが、
高さは16mと言います。
今回のツアーで私が一番期待していたのが、媽祖様の巨神像です。遠くから眺める媽祖
像は上半身だけですが、優しげな雰囲気を醸し出していました。いよいよ最終日の午後、
媽祖様のもとへ。
巨大な像の足元から見上げ、媽祖様の横顔を最初に見た時は正直言ってちょっと失望し
ました。かなり厳しい顔つきに見えまして、遠くから見た優しい雰囲気がありませんでし
た。そして像に近づき、正面から見上げた時に、ちょっとオーバーですが、電気に打たれ
るようなショックを受けました。
抜けるような青空を背景に、まっ白い巨像がすっくと立ち、我々を見下ろしているよう
な感じですが、その目が素晴らしい。きりりとしたお顔が素晴らしい。優しくも見える
し、凛々しくも見える。真正面から像を見上げて写真を撮ったり、少し離れてシャッター
を切ったり、右に左にうろうろと移動しながら見上げておりましたが、やがて正面で足が
止まりました。
今から50年ほど前、就職して間もないころ、すこし晩熟(おくて)の悩み多き年頃の私
は、出張先近くの奈良県、法隆寺をお参りし、百済観音像の前に立ちました。何の悩み
か? まぁそれは……ご想像の通りです。
たまたま朝早かったせいか、仏像を拝観する人がほとんどおらず、私は観音像の前に半
日立ち尽くしました。観音像から目を離すことができず、ただただ立ち尽くしていたので
す。何を考え、何を願い、何を思ったか、今では思い出せませんが、じっと立っていたこ
とは覚えています。そして私は、なにがしかの勇気をいただいたようでした。
右上の媽祖様のお顔をご覧ください。目、離せなくなりませんか。
◆一転して罰当たりな話
今回のツアーでは、もう一つショッキングな話を伺いました。
文化大革命(1966〜1969年)の時、馬祖列島には大陸から多くの死体と共に各種のご神
体が漂着したそうです。中華人民共和国では、媽祖信仰を迷信的、非科学的な活動の温床
と捉え、文革時代にすべての廟祠を徹底的に破壊したと言います。何という罰当たりなこ
とでしょう。南竿島橋仔集落の人々は流れ着いた死体を丁寧に葬り、各種ご神体を西
山霊台宮という廟にお祀りしたと聞きました。
片や迷信、非科学的の名のもとに徹底的な破壊、片や神仏への感謝の気持ちとお祀り、
何という違いでしょう。
我々は台湾の人々の親切心、優しい心遣いにびっくりさせられますが、その心のもとに
はこのような信仰心があるのではないでしょうか。片倉さんのご説明の中でも、媽祖様は
台湾人の心の隣にいると言われており、媽祖信仰は台湾人にとって日常的なことであり、
家族に相談できない事も媽祖様にお伺いを立てるとのことでした。
◆神様との交流
今回のツアーで信仰心に関連して、もう一つのお話を伺いました。それは、媽祖様のお
誕生日(旧暦3月23日)に行われるお祭りです。
台湾各地の媽祖廟でお祭りがおこなわれ、100万人が参加すると言われています。各地で
行われるお祀りの中でも、台中市大甲区の鎮瀾宮から嘉義県新港の奉天宮の間を徒歩で往
復する「媽祖巡行」が最も有名だと言います。
面白いのは開催日程の決め方で、元宵節(旧暦1月15日)の夜、神意を伺って決めるそう
です。ということは、来年の媽祖巡行の日程はまだ決まっていないということです。
台湾の廟でよく見かける風景があります。神様の前で一心に祈っている人が、三日月の
形をした2つの赤い木片(「●」ジアオ)を地面に投げます。これは神様のお考えを聞くた
めの行為だそうで、「擲●」(ジージアオ)と言います。
●の片面は平面になっていて「陽」を表し、反対側が凸面で「陰」を表し、投げた●が2
つとも陽ならば「笑●」と言って吉でも凶でもない、2つとも陰ならば「怒●」と言って
凶、陰陽と出れば「聖●」と言って吉を現わします。自分の考えをよく念じて、「擲●」
によって神様のお考えをお聞きするのです。そして3回続けて同じ●が出れば、それが神様
のお返事と言うことになるそうです。
「媽祖巡行」の日程もこのようにして決めるのでしょうか。台湾の廟に立ち寄ります
と、どこの廟でも、老若男女がこの「擲●」をやっています。人間だれしも意思決定に迷
うことがあります。そんな時、神様との交流を通して意思決定するというのは素晴らしい
ことと思います。
*●=竹の下に交
この媽祖巡行は台湾の人は一生に一度は行ってみたいと思うそうで、伊勢神宮参拝や四
国のお遍路さんを思い出します。お遍路さんの通る街道の人々は皆お遍路さんを支援する
そうですが、この媽祖巡行でも同じことが行われるとのことです。
媽祖巡行は往復300キロを超えるそうですが、この間、いろいろなことが起こるでしょう
し、中には疲労したり、病気になったりするでしょう。街道の人々は巡行の人々に休む場
所を提供し、食べ物や飲み物を振舞うそうです。
台湾の人々は困っている人を見かけると黙っておられず、すぐに手を差し伸べるのだそ
うです、媽祖様がそうであるように。
◆おわりに
今回の「台湾通信」を書くにあたっていろいろ調べまして、多くの事を学び、気づかさ
れました。311の時、台湾から巨額のお見舞いを頂戴いたしましたが、多くが個人の献金と
言います。多くの日本人が、親切な台湾の人々に助けられたという体験談を語っていま
す。困っている人を見ると手を差し伸べたくなるという心の源が分かりました。「川に落
ちた犬は叩け」という考え方の人々の正反対です。
迷信、非科学的の名の元に多くの廟祠を徹底的に破壊し、ご神体を死体とともに海に投
棄したという人々と、漂着した死体を埋葬し、ご神体を祀る人々との違いは何でしょう
か。言わずもがなの事ではありますが……。
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