中共研究から台湾研究へ
本会理事・帝塚山大学名誉教授 伊原吉之助
昭和四十九年、一年間台湾に住んだ。三度目の訪台だった。木柵の国立政治大学国際関
係研究所に住み込んで、文革研究のため、江青の伝記資料を探ったのである。台湾には江
青を知る人が沢山居て、中共の資料も豊富にあった。それ以後、毎年二、三回、「中共研
究」のため台湾に通った。
台湾を研究し始めたのは、香港に関する中英交渉が終わってからである。「残るは台湾」
とばかり、台湾に関する報告や文章を求められたので、台湾の政治の流れを見るため、「
台湾の政治改革年表・覚書」という研究ノートを作り始めた。台湾の出来事や資料を抄録
したのである。これがその後、私の研究時間の半分をとる大作業になるとは、当時、思い
も寄らなかった。
訪台を繰り返すうちに、台湾が実に懐かしくなった。何しろ、師範大学前の和平東路や
台湾大学横の新生南路を造成中から知っているのだ。いつの間にやら「台湾の水を飲み、
台湾の米を食べて育った」老台北になり、台湾と台湾人大好き人間になった。
こうして台湾で暮らすうちに、台湾が抱える複雑な事情が判ってきた。
台北で三ヶ月北京語を習い、練習のため北京語で話しかけると大抵日本語で返ってくる。
北京語を使いたくない人が居る。禁じられていたから敢えて日本語を使う抵抗精神旺盛な
人も居る。国際感覚の鈍い日本人である私には、いろんな発見があった。
蒋介石が台湾占領のため派遣した陳儀は、同胞としてでなく、勝利者として台湾に君臨
し、略奪暴行勝手次第をやった。彼らには豊かな生産基地台湾を経営する意志も能力もな
く、現にある富を奪って大陸に持ち帰ったのである。工場や生産設備まで解体して大陸に
送った。
ところが、国共内戦の敗退で中国国民党の亡命政権が台湾に逃げ込み、折からの冷戦と
相俟って、「一中を争う二中」問題に捲き込まれた。
蒋介石にとって台湾は、大陸反攻のための基地でしかなく、軍事費を搾取しただけで建
設せず。蒋經國にとって台湾は生活基地だったから、建設に手を染めた。李登輝にとって
台湾は生まれ故郷だから、中国国民党の独裁を民主化し台湾化した。陳水扁は米国・中国
・野党の「一中」圧力の前に「中華民国」体制の枠内でしか動けない。李登輝を追い出し
た連戦は「中国」国民党に引き戻し、立法院での多数を頼んで少数与党の民進党政権を揺
さぶり続けている。
台湾は民主化したというが、民主主義とは法治と手続きによる統治である。在台中国派
の野党は好き勝手にこれを踏みにじり、民主主義はまだ台湾に定着したとは言い難い。米
国と中国は、冷戦中の便宜的申し合わせ事項にすぎない「一中」の虚構に固執して、台湾
をも国際社会をも縛り続けている。
台湾はこのように歴史の重荷に苦しんでいるように見えるが、時とともに希望が出てき
た。若い世代が順調に育っているのである。
彼らは、歴史の重荷を気にしない。中国に郷愁を抱く「外省人」は、二二八事件や白色
テロを経験した台湾人とともに次第に退場しつつある。今や、大陸籍を持つ者を含めて、
台湾で生まれ、台湾に育ち、台湾のため奮闘する世代が着々と育っている。「中国との究
極的統一」などという者を、新時代の台湾人が指導者に選ぶとは思えない。
明日の台湾は、もっとすっきりするに違いない。