「空白の東台湾史を顧みる」と題し、出版に先駆けて執筆しています。すでに本誌でも
紹介しましたが(平成18年12月1日、第417号)、単行本のエッセンスでもあり、チャン
ネル桜放送のご参考まで、ここに再掲してご紹介します。
山口氏の『知られざる東台湾−湾生が綴るもう一つの台湾史』は台湾の歴史および日
本の歴史を知る上で欠かせない名著です。大部ですが、ご一読をお勧めします。
(編集部)
空白の東台湾史を顧みる 台湾と私(15)
本会理事・蕉葉会副会長 山口 政治
私は東台湾の移民村で有名な吉野に生れ、理蕃要衝の地、玉里と新城で青春時代を過
ごした。
そもそも台湾は、日本が統治するまでに三度の外来政権に支配されたが、その何れも
東台湾に主権を及ぼさなかった。そのため、東台湾は二百七十年間、空白の無法地帯と
なっていた。
この状態を目覚めさせたのが牡丹社事件である。事件は日本の出兵で解決したが、清
朝政府はこの時より、東部も自国の領土であることを示すために東西横断道路を開削し、
初代巡撫劉銘伝は台湾経営を積極的に取り組んだ。ところが、その行政が軌道に乗ろう
としている最中、日清戦争により台湾は日本の領土となった。
まことに皮肉なことに、事件の際、東部の治安を厳しく追求した日本が今度は、自ら
の手で解決しなければならないこととなった。領台当初、その治安は極めて悪く、明治
二十九年、タロコの監視哨として派遣されていた、結城少尉以下二十三名がタイヤル族
に全滅され、その遺体収容に向かった花蓮港守備隊は半年かけて失敗に終り、その間、
風土病に罹った者を含め五百余名の死傷者を出した。東部の治安は、大正三年、第五代
佐久間総督が一個師団を投じてタロコ討伐を断行したことにより結着した。その結果、
高砂族の九六%が帰順し、台湾の治安もようやく確保されるようになった。
とはいえ、ただちに東部に人の住めるようになったわけではない。大正の頃まで「波
が荒くて入れん港、一度入ると帰れん港、米がまずくて食われん港」と言われ、東京大
学の矢内原忠雄教授は名著『帝国主義下の台湾』で「東部の開発は不可能に近い」と指
摘したほどである。
だが、治安解決に目どがつくと、台湾総督府は人知の限りを尽くして東台湾の開発に
取り組み、花蓮港の庁民はこれに呼応してあらゆる難題に挑戦した。
その先頭に立ったのが警察官と教師だった。警察官は山岳地帯の蕃社に入り込み、サ
ーベルに代えて鋤と教科書を手にし、家族ぐるみで高砂族を啓蒙して近代化に務めた。
教師たちは、芝山巌精神と教育勅語をバックボーンとし、我が子のように分け隔てなく
教えた。
その姿を見ていた湾生二世の子弟たちは「両親は愛情と使命感に燃えていた」と語る。
こうして警察官や教師の献身的努力により共存共栄の精神は芽生え、鉄道、道路など
のインフラは急速に進捗した。元々不毛の地帯だったので建設は目を見張るものがあっ
た。しかし、それには多くの犠牲者と苦難を伴った。例えば交通の大動脈となった台東
線一七〇キロを開通させるのに十六年もかけ、蘇花断崖一二〇キロを自動車道に完成さ
せるのに三十年も要した。
こうしたインフラの整備と平行して、産業の振興も進められ、後世に残る吉野村の官
営移民を魁とし、台東線上、点と線をなす十四の一大移民ベルト地帯を形成したのであ
る。血と汗を流した移民者を襲ったのは台風、マラリア、恙虫、毒蛇で、当時の恐怖の
話題は今日なお語り継がれている。
移民に続き、黒い煙を吐いた寿村と上大和村の塩水港精糖は東台湾の近代化を象徴し
たが、何と言っても近代化を世に示したのは、庁民が夢にまで見た築港を完成し、三〇
〇〇トン級三隻を接岸させた時で、このとき提灯行列をして祝った。さらに島民を驚か
せたのは、時代の花形産業の重化学工業、アルミ、ニッケルを豊富な電力を活用して生
産したことである。
顧るに、歴代の外来政権が目も向けずに空白にしていた陸の孤島東台湾を、五十年足
らずで西部並みに近づけ、「住めば都よ帰れん港」の理想郷にしたのは、台湾史に残る
大事業だった。終戦で別れを惜しんで振り返った時、人々は文字通り「麗しの島、イラ
・フォルモサ」と感嘆したのだった。