平井数馬先生慰霊祭・顕彰会の御案内
台湾の近代教育の始まりは、明治28年(1895年)日清戦争に勝利し、我が国による台湾統治が始
まった時です。文部省学務部長心得の伊沢修二(東京音楽学校初代校長、「小学唱歌集」編纂者)
は、初代台湾総督の樺山資紀に対して、統治政策のなかでも教育を最優先すべしと具申し、日本全
国から六人の優秀な志ある人材を募集し台湾に渡りました。そして、台北北郊の士林に「芝山巌学
堂」という最初の学校を開き、台湾人子弟と寝食を共にし、心魂を込めて教育に当たります。
ところが、翌明治29年元旦、6人の教師と1人の用務員が台湾総督府における新年の拝賀式に出席
するため、芝山巌を下山しようとしたとき、約百人の「土匪」(抗日ゲリラ)に取り囲まれます。
この頃の台湾は、内地人を敵視する匪賊が盤踞し、周辺住民は教師たちに再三退避を勧めました
が、「もとより教育とは命がけのもの」として芝山巌学堂を離れませんでした。六人は教育者とし
て諄々と道理を説きますが、ついに匪徒は槍を持って襲いかかり、全員惨殺されてしまいます。
その6人の教師の名は、楫取(かとり)道明(山口県 38歳)、関口長太郎(愛知県 37歳)、
桂金太郎(東京府 27歳)、中島長吉(群馬県 25歳)、井原順之助(山口県 23歳)、平井数馬
(熊本県 17歳)であり、後に「六氏(士)先生」と尊称されました。
ちなみに、リーダー格の楫取道明の父、楫取素彦(別名・小田村伊之助)は吉田松陰が信頼した
盟友で、初代群馬県令を務めました。母、寿は吉田松陰の妹に当たり、いずれも、今年のNHK大
河ドラマ「花燃ゆ」に登場する人物です。明治維新の胎動をもたらした「松下村塾」の精神は、芝
山巌学堂における、楫取道明を始めとする六氏先生の身命を賭した教育に継承されたと言っても過
言ではありません。
さて、台湾近代教育の礎を築いた「六氏先生」の一人、僅か17歳で非命に斃れたわが熊本県出身
の平井数馬先生は、中学済々黌に学び、語学や柔道・剣道等文武に秀でた俊才で、「日台会話集」
等語学書の編集に携わった人物です。土匪に襲われた際も、土匪を組み伏せ敢闘奮戦したという逸
話が残っています。
このように、「六氏先生」の芝山巌学堂における教育は1年にも満たないものでしたが、悲報が
内地に伝わるや、その遺志(「芝山巌精神」)を継承すべく、全国各地から陸続として有志の教師
達が渡台し、台湾全土で献身的に子弟の教育に従事しました。本県からも、平井数馬先生に続けと
ばかり、多くの教師が渡台し、大正期後半以降、台湾における公学校、小学校教員のほぼ一割を本
県出身者が占めていたと言われます。
戦後、本県においては、台湾で教育に従事した教師達によって作られた「熊本芝山巌会」によっ
て、熊本市立田山麓の小峯墓地にある平井家墓地に顕彰碑が建てられ、戦前2月1日に、台湾芝山巌
神社で斎行されていた祭典にちなんで、近年まで平井数馬先生を慰霊顕彰する「英魂祭」が挙行さ
れてきました。また、平成21年には、台湾の李登輝元総統が墓参を果たされ、その偉功を讃えられ
ました。
つきましては、この度新たに、平井数馬先生を敬仰してその御霊をお慰めし、国家百年の計たる
教育の再生に向けて、「芝山巌精神」に学ぶべく、左記により慰霊と顕彰の集いを行いますので、
ご参加頂きますようご案内申し上げます。
平井数馬先生顕彰会 代表 白濱 裕
記
◆日 時:平成27年2月1日(日) 午前10時〜午後1時
◆慰霊祭:10時〜 熊本市営小峯墓地 平井家の墓前(熊本市中央区黒髪4-10-49)
◆顕彰会:11時〜 熊本大学「くすの木会館」(同窓会館)(熊本大学構内・教養部北側)
挨 拶 平井幸治氏(ご遺族)
講演1 「台湾に残された日本文化」
戎(えびす)義俊氏(台北駐福岡經濟文化辧事處處長〈総領事〉)
講演2 「平井数馬先生と芝山巌教育」
白濱裕(熊本大学・崇城大学非常勤講師)
◆食事会:12時〜午後1時(顕彰会の後、同所別室で行います。)
◆参加費:顕彰会・1,000円 食事会・1,000円 (いずれも学生は無料です。)
◆主 催:平井数馬先生顕彰会
◆連絡先:代 表 白濱 裕
熊本市北区清水岩倉2-12-11 080-5261-3294
事務局 末次直人
熊本市北区楠8-18-13 090-2852-4438
墓 誌(小峯墓地墓所碑文)
平井数馬先生は台湾教育のために殉ぜられたる先覚者なり。先生は熊本市外松橋町に生まれ幼児よ
り神童の名高く、熊本高等小学校より済々黌に進み、常に成績抜群、中国語を九州学院に学び、剣
道を星野道場に励み、早くより海外雄飛の大志あり。明治二十八年八月台湾総督府通訳官に任ぜら
る。学務部長伊沢修二先生の下、楫取道明・関口長太郎・桂金太郎・中島長吉・井原順之介の五士
と共に芝山巌の学堂に於いて藁を敷いて起居、寝食を忘れて専心島民の教育に精励され、特に「日
台会話」の本の如きは、先生の苦心研究の結晶にして台湾に於ける国語教育の根源たり。然るに当
時の台湾は施政日尚浅く、物情騒然たるもの有り。二十九年一月元旦、六士が年賀のため総督府に
赴かんとして山を下るや、蜂起したる一部土民の襲撃を受け一同無念の最期を遂げらる。然りと雖
も六士先生の偉大なる教育精神は芝山巌精神として後進に継承され台湾教育の指針となる。六士先
生逝きて七十五年、此の秋にあたり我等は殉国の士平井数馬先生の遺徳を称え、その英魂を慰めん
として茲に其の碑を建つ。在天の霊、降りて我等の微衷を亨けられんことを。
熊本芝山巌会