たのは、つい1年ほど前。2014年3月18日のことだ。もっとも衝撃が大きかったのはいうまでもなく
台湾で、台湾史に残る画期的な出来事だったと言って過言ではない。
ひまわり学生運動に参加した林飛帆氏や陳為廷氏など学生代表の発言は、立法院を退去した後も
かなり取り上げられていたが、立法院補欠選挙に出馬表明した陳為廷氏がかつての痴漢行為を正直
に告白したことが災いして立候補を断念し、林飛帆氏も兵役に服するなどで、ひまわり学生運動に
関する報道はめっきり減った。
しかし、ひまわり学生運動は台湾人としての自覚を促し、台湾に愛国心をもたらした。独立への
機運を高めた。なによりも、中国国民党政権への打撃は大きく、統一地方選挙にも大きな影響を与
え、与党惨敗の結果をもたらした。2014年3月18日は、台湾人が自らの声を挙げた日として長く台
湾史に刻まれるだろう。
それだけに、ひまわり学生運動のその後が気になっていたところ、朝日新聞台北支局長の鵜飼啓
(うかい・はじめ)記者が5月27日から「台湾のひまわりをたどって」を連載、その後のひまわり
学生運動についてレポートしている。その第5回を紹介したい。
台湾のひまわりをたどって(5) 市民動かした若い兵士の死
鵜飼 啓(台北支局長)
【朝日新聞:2015年6月2日】
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11787648.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11787648
写真:総統府そばで開かれた洪仲丘の追悼集会。主催者の呼びかけで、参加者は白い服を着た=
2013年8月3日、台北
蒸し暑い夜だった。一昨年の8月3日。台北の総統府がある一帯を25万人ともいわれる人が埋め尽
くした。
大学を出て兵役に就いていた洪仲丘という若い兵士が、軍のしごきで死亡した。その追悼集会に
集まったのだ。主催団体の呼びかけで、多くの参加者が白いシャツを着ていた。あまりの多さに舞
台が見える場所にも近づけない。
それでも帰ろうとする人は少ない。「馬英九(マーインチウ)、下台(やめろ)!」。あちこち
で総統批判の叫び声が聞こえた。
洪が死亡したのは、兵役期間を終える直前の7月4日。規則に反してカメラ付き携帯電話などを兵
営に持ち込んで厳しい懲罰を科され、命を落とした。国防部は真相解明に及び腰だったが、遺族の
追及で大問題になった。
連日、テレビカメラの前で訴え続けたのが姉の洪慈庸(31)だ。最初の弁護士は和解をすすめた
が、「何があったのか分からないのに和解できない」と拒んだ。
「仲丘は母親思いのいい弟だった。オートバイで2時間のところにいても、母から呼ばれたらす
ぐに帰ってきた」
ごく普通の若者が、軍内の理不尽な暴力で命を落とす。徴兵制の台湾では、多くの人にとってひ
とごとではなかった。軍は責任を認め、国防部長(国防相)も辞任した。
慈庸は言う。「仲丘も私たちのことも知らない人が集まってくれた。許せない不正義に直面した
とき、台湾の市民は立ち上がる」
この「洪仲丘案」(洪仲丘事件)が引き起こした一連の動きは、市民が政治に対して声を上げる
「公民運動」の新たな可能性も示した。顔を合わせたことのない支援者がネットを通じてつなが
り、集会を企画した。ボランティアや参加者も、フェイスブックなどの告知を見て来た人たちがほ
とんどだった。
ネットで情報が拡散し、多くの人を動かす。中東の民主化運動「アラブの春」や、格差是正を訴
えた米ニューヨーク金融街での抗議運動「ウォール街占拠」とも共通する。「ひまわり学生運動」
でも見られた現象だ。「洪仲丘案」の経験があったからこそ、立法院占拠で多くの市民が立ち上
がった。
その後の公民運動の「ゆりかご」にもなった。支援の輪の中心にいたのは、洪仲丘と同時期に兵
役に就いていた医師、柳林イ(31)。立法委員(国会議員)の活動を監視するネットメディアを立
ち上げた。代議制が民意を反映できていないことが台湾の大きな問題だと考えている。
立法委員の罷免(ひめん)運動「割闌尾(コーランウェイ)計画」で中心的役割を果たす起業
家、林祖儀(31)も支援メンバーだった。闌尾は日本語で虫垂。炎症を起こしたとき、大事に至ら
ないよう切除する。質の低い立法委員を退場させて健全な代議制を守ろうという取り組みだ。
必要な署名を集めて今年2月に罷免投票を実現させたが、投票率50%以上の成立条件に届かな
かった。それでも林は言う。「罷免権は有権者の重要な権限。多くの人に知ってもらったことで意
味はあった」=敬称略
(文と写真・鵜飼啓)