たのは、つい1年ほど前。2014年3月18日のことだ。もっとも衝撃が大きかったのはいうまでもなく
台湾で、台湾史に残る画期的な出来事だったと言って過言ではない。
ひまわり学生運動に参加した林飛帆氏や陳為廷氏など学生代表の発言は、立法院を退去した後も
かなり取り上げられていたが、立法院補欠選挙に出馬表明した陳為廷氏がかつての痴漢行為を正直
に告白したことが災いして立候補を断念し、林飛帆氏も兵役に服するなどで、ひまわり学生運動に
関する報道はめっきり減った。
しかし、ひまわり学生運動は台湾人としての自覚を促し、台湾に愛国心をもたらした。独立への
機運を高めた。なによりも、中国国民党政権への打撃は大きく、統一地方選挙にも大きな影響を与
え、与党惨敗の結果をもたらした。2014年3月18日は、台湾人が自らの声を挙げた日として長く台
湾史に刻まれるだろう。
それだけに、ひまわり学生運動のその後が気になっていたところ、朝日新聞台北支局長の鵜飼啓
(うかい・はじめ)記者が5月27日から「台湾のひまわりをたどって」を連載、その後のひまわり
学生運動についてレポートしている。その第7回を紹介したい。
台湾のひまわりをたどって(7) 香港の雨傘
鵜飼 啓(台北支局長)
【朝日新聞:2015年6月4日】
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11791700.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11791700
写真:香港・金鐘の占拠現場で「台湾人は真の普通選挙を支持する」と書いたメッセージを掲げる
人。大きな拍手がわいた=2014年10月1日
日本の読者は「ひまわり」よりも「雨傘」をよく覚えている方が多いかもしれない。
昨年9月末、香港の民主派や学生ら数万人が香港島中心部の金鐘や九竜地区の旺角(モンコッ
ク)などで幹線道路を占拠した。シンボルの黄色い雨傘から「雨傘運動」と名付けられたこの占拠
は、3カ月近くたった12月15日に強制排除されるまで続き、世界で報道された。
ほぼ半年前に起きた台湾の「ひまわり学生運動」は、香港の「雨傘運動」に影響を与えたのか。
香港に飛んだ。
「香港でもこんな運動が起きたら、どれだけすばらしいだろう」。占拠されていた台湾の立法院
(国会)を訪れた香港城市大学の学生会副会長、梁暁暘(22)は当時、うらやましく思ったとい
う。
英国の植民地だった香港は1997年に中国に返還された。特別行政区として一定の自治は認められ
ているが、本土の富裕層による投資で不動産が高騰するなど、中国の存在感は暮らしの中で膨らん
でいる。中国人との接触が増えると、香港人は「価値観が違う」と実感した。
「香港と台湾は違うところも多いけど、中国の影響を強く受けるという点は同じ」と梁は言う。
台湾の学生たちの抵抗に共感し、香港で署名集めを展開。8大学から約1万人が署名した。それを届
けに台湾の立法院に行ったのだ。
5日間ほど滞在し、香港人留学生を交えて台湾の学生たちと交流。戻った後は農地改革への抵抗
運動に参加するなど、大きな刺激を受けた。
香港の主要大学による学生会連合会の幹部だった陳樹暉(24)は、「台湾の運動の影響は大き
かった」という。
香港の運動は、行政長官選挙の制度改変への反発から起きた。決定権を持つ中国は、民主派が事
実上立候補できない仕組みを打ち出した。普通選挙を求める民主派は1年以上前から「占拠」を議
論していたが、具体化していなかった。「台湾が動いたのだから我々も」と準備が加速した。
台湾や香港で運動の中心的役割を担った学生たちは、以前から定期的に交流を持っていた。香港
の学生らは「ひまわり」後の8月にも台湾を訪問。運動時の役割分担や一定の秩序を保つ方法など
について台湾側の経験を学んだ。
ただ、準備は実際に占拠が始まるとほとんど役には立たなかった。10月1日に始める予定が突発
的に前倒しに。占拠が起きたのも当初計画した場所ではなく、運動が拡散した。立法院内の学生が
運動を引っ張った台湾と違い、統制が取りにくくなった。交通がマヒして市民生活に影響し、風当
たりも強かった。
台湾の学生たちは台湾当局を動かせば良かったが、香港の場合は強大な中国が相手だった。譲歩
は勝ち取れず、今、運動への無力感も漂う。
学生リーダーだった周永康(24)は「確かに具体的な成果はなかった。これ以上何かできるの
か、という疑問も分かる」という。だが、と続けた。「これまで運動に参加したことがなかった多
くの人が加わり、香港の政治的文化が変わった。長期的な影響は大きいと思う」
=敬称略(文と写真・鵜飼啓)