たのは、つい1年ほど前。2014年3月18日のことだ。もっとも衝撃が大きかったのはいうまでもなく
台湾で、台湾史に残る画期的な出来事だったと言って過言ではない。
ひまわり学生運動に参加した林飛帆氏や陳為廷氏など学生代表の発言は、立法院を退去した後も
かなり取り上げられていたが、立法院補欠選挙に出馬表明した陳為廷氏がかつての痴漢行為を正直
に告白したことが災いして立候補を断念し、林飛帆氏も兵役に服するなどで、ひまわり学生運動に
関する報道はめっきり減った。
しかし、ひまわり学生運動は台湾人としての自覚を促し、台湾に愛国心をもたらした。独立への
機運を高めた。なによりも、中国国民党政権への打撃は大きく、統一地方選挙にも大きな影響を与
え、与党惨敗の結果をもたらした。2014年3月18日は、台湾人が自らの声を挙げた日として長く台
湾史に刻まれるだろう。
それだけに、ひまわり学生運動のその後が気になっていたところ、朝日新聞台北支局長の鵜飼啓
(うかい・はじめ)記者が5月27日から「台湾のひまわりをたどって」を連載、その後のひまわり
学生運動についてレポートしている。その第2回を紹介したい。
台湾のひまわりをたどって(2)「私は台湾人」、意識解き放つ
鵜飼 啓(台北支局長)
【朝日新聞:2015年5月28日】
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11777185.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11777185
写真:立法院前で開かれた占拠1周年の記念集会。「台湾独立」や「台湾魂」を訴える人たちの姿
もあった=3月18日、台北
台湾で学生らが立法院(国会)を占拠した「ひまわり学生運動」を支えたのは、どんな人たち
だったのか。
突入から1年。今年3月18日夜、立法院前の記念集会に林思吾(32)は妻と3歳の娘の3人で参加し
ていた。
広告関連のIT企業を経営する起業家だ。市民が政治に声を上げる「公民運動」に、あまり関心
もなかった。だが、中国とサービス業を開放しあう協定への反対で突き動かされる学生たちを見
て、各地の台湾人の応援メッセージをまとめた動画を仲間と作成するなど熱心に支援した。
「若者たちが門をこじ開けた。あとは30代、40代の我々がしっかりしなければならない」と刺激
を受けた。
占拠があれだけの共感を呼んだのは、民主主義を踏みにじったとの怒りに加え、影響力を強める
中国への反発が底流にあった。「台湾の未来は中国だけにかかっているのではない。若い世代は台
湾の主体性について強い思いがある」。林はそう語る。
大企業は中国とのビジネスで大きな利益を上げ、中国の顔色をうかがう。しわ寄せを受けるのは
庶民ばかり。「中国に遠慮するのはもうたくさん」。占拠現場の取材でもそんな思いを強く感じ
た。
「あなたは中国人ではないのか」。今月19日、母校を講演に訪れた林は中国からの留学生に問い
詰められた。林が中国資本による投資の提案を断ったことが報じられていた。「ここで生まれ育っ
た台湾人だ。中国人は尊重するが、私は中国人ではない」。答えに大きな拍手がわいた。
台湾に住む人たちの多くは、先祖が中国から渡ってきた。50年間の日本統治を経て、第2次大戦
後に統治を始めた国民党政権は、台湾人に普段使う台湾語とは異なる中国語(北京語)を使うよう
に強制。「中国人」としての意識を持つよう求めた。1949年に大陸で共産党との内戦に敗れ、台湾
に完全に移った後も、国民党は「いつか大陸を取り戻す」とこだわった。
だが、為政者として過酷な弾圧を行い、戦前から台湾に住む「本省人」は反発。戦後になって国
民党政権とともに台湾に移った「外省人」との間で、中国や台湾に対する考え方に大きな溝が出来
た。
中台分断から66年、若い世代のほとんどが台湾生まれだ。外省人も2世、3世となり、中国への郷
愁は薄れた。台湾は中国とは別と考える「台湾意識」が強まる。政治大学の調査では、自らを台湾
人と考える人は92年の17・6%から昨年は60・6%に。中国人と考える人は25・5%から3・5%に激
減した。
台湾では以前、歴史といえば中国史だった。台湾の歴史を本格的に学ぶようになったのは、本省
人で初めて総統になった李登輝政権(88〜2000年)下だ。占拠に加わった若者の多くは、こうした
教育を受けた世代だ。
ただ、若者たちは普段は「台湾意識」を押し出すことは少なかった。占拠でそれが解放されたよ
うに見える。学生の一人が言う。「占拠の後、友人と台湾について語ることが増えた」
=敬称略(文と写真・鵜飼啓)