台湾民主化の父・李登輝

【日経ビジネス:2012年1月25日】
http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20120124/226452/?ST=pc

 岩里政男という日本人の名を記憶する人は多くはないでしょう。1923年、日本統治下の
台湾に生まれた巨躯の青年は、台北高校を卒業後、1943年に京都帝国大学に進んで農業経
済学を学びました。学徒出陣により出征し、高射砲部隊に少尉として配属されています。
終戦後は台湾に戻って台湾大学に復学。米国留学を経て台湾政界に進みました。日本人と
会うと人懐っこい笑顔を浮かべて「21歳まで私も日本人でした」と流暢な日本語を操るこ
の台湾人こそ、後に「台湾民主化の父」と称される李登輝その人です。

 本日「PLUS」に配信した「療養中の李登輝氏が台湾語で伝えた『最後の願い』」でお伝
えしているのは、先日の台湾総統選での李登輝の応援演説です。李登輝が壇上に立ったの
は、かつて自身が在籍した与党・国民党の集会でなく、野党・民進党のそれでした。「李
登輝が民進党の応援演説に立つ」ということの意味をより深くご理解いただくために、今
日の当欄は、「日本人」として生まれ、「台湾人」としてこの島の民主化を導いたこの人
物の半生を振り返ります。

 終戦後。日本から戻った故郷・台湾で李を待ち構えていたのは政治の混乱でした。日本
に代わって統治者として大陸から渡ってきた中華民国・国民党(外省人)は、旧住民(本
省人)を徹底して差別。ついに罪のない台湾人を射殺する事件が発生するに及んで、怒り
を爆発させた本省人が蜂起し、国民党政府はこの群集に機関銃掃射で応じました。台湾史
に永遠に語り継がれるだろう惨劇「二・二八事件」です。

 蜂起した台湾人は、ラジオ局を占拠して軍艦マーチを流し、台湾語と日本語で蜂起を呼
びかけたと伝わります。一時は劣勢を余儀なくされた国民党政府ですが、蒋介石から1師団
と憲兵隊の「援軍」を得て反攻。武力を背景に徹底的に蜂起勢力を弾圧しました。

 1949年には中国共産党との内戦に敗れた国民党・蒋介石が台湾に拠点を移転。以降、日
本統治時代に高等教育を受けた本省人の知識層を次々に逮捕、投獄する「白色テロ」が続
き、台湾全土に暗い影を落とし続けました。京大、台湾大と学んだ本省人・李登輝にとっ
ても無縁な話ではなく、この間、知人の蔵に匿われて難を逃れたと後年述懐しています。
1952年に奨学金を得て農業経済学を学ぶべく米国に留学し、台湾を離れました。

 その後一介の農業経済学者があまりに順調に台湾総統に昇り詰めるまでの経緯を振り返
る時、「李登輝を台湾総統にする」という“天意”がレールを敷いているのではないかと
すら信じたくなります。米国から帰国後、農業経営の手腕を買われて政府に入り、国民党
に入党。40代で入閣。1978年に台北市長、81年に台湾省主席。1984年、蒋介石の実子で台
湾総統、国民党主席の蒋経国に副総統に指名されました。

 「蒋経国が私を後継者として指名したかは知らない」と李は振り返ります。ですが、蒋
経国総統が1988年に死去すると、任期中に死亡した総統の座は副総統に(総統代行として)
継承されるという憲法の規定により、李登輝が事実上の台湾総統に就くことになりました。
蒋介石、蒋経国と一族直系で継承されて来た総統の座が、「任期中の死去」という理由で、
本省人・李登輝の元に転がり込んで来たのです。以後、巧みに党内勢力を掌握し、2年後の
総統選挙でも勝利を収めて名実ともに台湾政界のトップに立ちました。

 李の任期中、台湾の民主化は怒涛の勢いで進みます。1991年に「動員戡乱時期臨時条款」
を廃止。これにより「二・二八事件」以来続く国民党一党独裁の象徴だった「戒厳令」体
制が解除され、憲政が回復しました。「万年国会」を全面改選させ、台北市や高雄市など
で首長選挙も実施。さらに、台湾総統を「1期4年、任期は最長2期」とし、その選出法に全
有権者による直接選挙制を導入しました。国民党政権時代、民主化に遅れを取っていた台
湾は、一躍、東アジアで最も民主化が進んだ地域へと姿を変えたと言えるでしょう。

 2000年の総統選挙で、李登輝自身は国民党の後任主席・連戦を推薦しましたが、国民党
の実力者で大衆的人気のあった宋楚瑜が離党して出馬し、分裂選挙となったことで敗北。
国民党が初めて下野し、民進党・陳水扁が総統の座に就きました。その意思に反してはい
ましたが、李が導入した直接選挙による総統選が台湾初の「政権交代」を実現させたこと
になります。しかし、陳水扁率いる民進党は在任8年間でスキャンダルにより力を失い、20
08年総統選挙で国民党・馬英九に政権を奪還されます。

 先日実施された総統選挙は、その再選の是非を問うものでした。その結果については、1
月16日付の当欄「涙の台湾総統選 政治と経済のあわい」でお伝えした通りです。

 日本人として生まれて本省人として育ったこの農業経済学者は、国民党一党独裁を憎み
つつその中枢に入り込んで徐々に足場を築き、力を握るや民主化を一気呵成に進めて、最
後には一党独裁を終焉させました。政界引退後は、国民党の政策と正反対の、台湾独立・
対中融和反対の志向をより露骨に表明しています。「自分たち」台湾人の民意で政治を動
かすシステムを生み出した李からすれば、中国に政治的な主導権を握られることは到底容
認できません。だからこそ彼がこの選挙戦で病を押して支援するのは、かつて在籍した国
民党でなく、野党・民進党だったのです。

 齢すでに89(演説当時88歳)。1月13日、老人は、かつて自らが作り上げた、民意がうね
り集結する「総統選挙」の場に立ちました。眼下には、20万人の「自分たちが政治を変え
る」という意思を持った台湾人が集まっています。政策の違いに関わらず、その民主主義
の沸騰こそ李が苦心の末に手にしたものでした。演説の一節を引きます。

「私はもう90歳近いです。この間、台湾は日本に統治され、国民党に統治されてきました。
原住民、第二次世界大戦前から台湾に来た人、戦後台湾に来た人などといった出自は関係
ありません。皆それぞれずっと苦労してきました。私たちがこの土地で共に暮らし、たく
さん苦労したからこそ、今の経済発展があるのです。だからこそ、自分たちで、自分たち
の台湾総統を選ぶ機会を得られるようになったのです。自分たちの生活の在り方について
選択する権利を得られるようになったのです」。

 米国に与えられた民主主義が疲弊し、政治への無関心が蝕む日本。比べれば、かつて同
胞だった台湾本省人が自らの手で掴み取った民主主義の重さを思わずにはいられません。
=敬称略
                                 (池田信太朗)


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