【稲毛新聞(243号):2016年12月9日「読者論壇」】
台湾の台北から車で1時間ほどの烏来(ウーライ)に、高砂義勇隊の慰霊碑がある。私はこの慰
霊碑の再建に力を尽くした簡福源さんと親しくさせて頂き、何度かお会いして話を伺ったが、残念
ながら7年前に亡くなった。烏来は台湾原住民の高砂族が住む町で、戦時中にここから多くの高砂
族が日本軍に志願して、高砂義勇隊として出征した。その勇敢さと献身ぶりは日本人の兵隊も驚く
ほどだったそうだが、多くの義勇兵が戦死した。
国民党の独裁政治が続いている間は慰霊碑を建てることもできなかったが、台湾人の李登輝氏が
1988年に総統になってから民主化が進み、地元高砂族の女性の尽力によって慰霊碑が建てられた。
その後、土地の所有者の事情によって別の場所に再建することになり、その責任者となったのが
元町長の簡福源さんだった。
簡福源さんは昭和6年の生まれ。「私たちが立派な人間になれたのは日本の教育のおかげです。
台湾は日本のおかげで発展し、豊かになったのです。私たちは日本人です。高砂義勇兵たちは愛す
る日本のために志願して戦って死にました。日本への恩返しのために戦ったのです」といつも言っ
ていた。
しかし慰霊碑の再建は中国系の議員や反日活動家などに妨害され、慰霊碑は日本の軍国主義の象
徴だと非難されて政治がらみの難しい状況になり、再建は中止に追い込まれた。
簡福源さんは慰霊碑に政治的な意味はないと主張して裁判に訴えた。
私が最後にお会いした2006年は裁判の最中だった。「台湾の歴史を何も分かっていない連中が妨
害しているのです。反対しているのは戦後大陸からやってきた国民党の中国人です。私たち高砂族
は、戦争で亡くなった高砂族を慰霊したいだけです。軍国主義でも何でもありません。裁判には絶
対勝ちます」とおっしゃっていた。
その裁判に勝って慰霊碑は無事に再建され、周辺を自然豊かな公園として整備し終えてから簡さ
んは亡くなった。
地元の名士でありながら腰の低い方で、私が烏来に行く時に電話すると、いつも必ず会ってお話
を聞かせてくれた。腰は低いが高い志と信念を持った非常に立派な方で、まさしく真の日本人だっ
た。
私は3年前にまた慰霊碑を訪れ、簡福源さんに感謝の祈りを捧げて、ご冥福を祈った。
昨年、台風の大雨によって山の斜面の慰霊碑一帯が土砂崩れの大きな被害を受け、慰霊碑は倒
れ、公園は無惨な姿になってしまった。現在、地元の人たちによって復旧が進められている。
簡福源さんが心血を注いで作った慰霊碑と公園が、一日も早く元の姿に戻ることを願ってやまな
い。