―塩見俊二氏著『秘録・終戦直後の台湾』(1979年・高知新聞社発行)から
王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長
参議院議員で自治大臣、厚生大臣を務めた塩見俊二氏(1907−1980)は、終戦当時、台湾総督府財務局主計課長であった。たまたま、総督府の仕事で東京に来ている時に、広島・長崎に原爆が落とされ、日本で終戦を迎えた。その後、外地官僚の首脳部が争って日本に帰国する中、塩見氏は、台湾に残した仕事を完徹すべく、自ら望んで、再び、台湾へ戻り、戦後処理にあたった。塩見氏は一年四ヶ月台湾で終戦事務を果たしたあと、昭和21(1946)年暮れに日本へ帰国するまでの間、克明に当時の状況を日記に記している。
つまり、1947年2月末に勃発した二・二八事件に至る台湾社会の様相が詳しく描かれていて、私の父、王育徳が著書『「昭和」を生きた台湾青年』の中で述べた台湾人の立場から見た二・二八に至る経緯、つまり追い詰められていく台湾人の苦悩と、塩見氏の記述は、まさに相符合している。
又、塩崎氏はその間に、『台湾統治五十年統計書』を作成し、台湾省政府から上梓している。当初は、台湾統治五十年史を考えたものの、中国人から“日本人の自画自賛”との批判を避けるために、数字を以て語らしめたもので、日本統治時代の民生、教育、産業、医療、交通運輸等の全般に亘るものである。
塩見氏が冷静に観察した台湾の戦後の様子の中から、一部、台湾人の動向についての部分を紹介したい。〈該当部分は176頁―177頁で、( )内は私の補足である。〉
1)
終戦から陳儀長官の就任までの台湾は、旧(日本)総督府の従来の慣例通り、行政、治安等の責任を持って、極めて平穏に過ぎたが、陳儀長官及び中国国民党の兵が来往して以来、情勢は急激に変化した。
日本軍の武装解除は穏やかに終了し、台湾人も次の歴史を期待して勇躍していたが、その期待が報いられるかどうかに一抹の不安を抱いていた。
その理由は、
(A)
日本人に独占せられていた政治組織を台湾人に解放されると予想した。しかし、その地位は中国人に独占せられ失望した。
(B)
台湾の自治が高度に許され、台湾人の活動が、高度に自由となり、言わば台湾が主人役となることを期待したが、その期待は日本人に代わって中国人が主人役になって見事に裏切られた。
(C)
一般大衆は中国人の特務機関(秘密警察・情報機関)や警察官等の行動に恐怖心をいだいた。
(D)
物価の騰貴、衛生の問題も不安の中心となった。
2)
経済問題にしても、日本人によって経営せられた会社企業が、台湾人に移ることを期待していたが、中国人に取って代わられた。
以上等の理由で、台湾人は陳儀長官の来台を歓迎したが、昭和二十一年の後半には
その期待が裏切られることが判然としたため、台湾人の動向は不満と不安が高まっていたのである。
かかる時、日本人の台湾総引き揚げが行われたのである。まことにタイミングを得た日本人の幸福であった。