【霧社事件】花岡一郎、二郎

【霧社事件】花岡一郎、二郎

メルマガ「遥かなり台湾」より転載

日本統治時代に発生した霧社事件(むしゃじけん)を描いた映画『セデック・バレ』で使われた
オープンセット「林口霧社街」(新北市)が今月20日に終了するそうです。昨年9月にオープン
した林口霧社街には、これまでに30万人が入場したとか。ぼくも昨年10月中旬に見に行って来ま
したが、当時の資料などもよく集めよくも細かいところまで再現しているのに感心させられました。

霧社事件とは、昭和5年(1930)10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で発生した
原住民による日本統治時代における最大規模の抗日暴動事件のことです。

この霧社街で一番印象に残った所は日本人と原住民の板挟みになって自殺した「花岡一郎、二郎」
の宿舎の部屋の壁に書かれたあった遺書でした。花岡一郎、二郎の二人は共に霧社のホーゴー社
出身で実の兄弟ではありませんが、義兄弟の契りを交わしていたそうです。二人は日本教育を受
けた今でいえば超エリートでした。一郎は台中師範学校を卒業後巡査となり、二郎もまた高等小
学校を出た後、警手(巡査に次ぐ職位)となったのです。でも、一郎はもともと教師になるはず
だったのに、巡査に任命されたのをあまり快く思っていなかったようです。
二郎の方は、事件前に官憲に対する不満を漏らしたことはなかったと言われています。警官であ
りながら事件に関わったとされる(蜂起に参画しなかったとの説もある)彼らが事前に蜂起を知
っていたかどうかは分かりませんが、一郎夫婦と二郎は、最後に後日花岡山と呼ばれる所で自殺
したのです。一郎は最期に宿舎の壁に遺書を貼りつけましたが、(霧社街では壁に直接書かれて
いました)達筆の毛筆で書かれたおり、二郎の手によるとされています。

遺書は次のように書かれていました。

花岡両 押印

我らはこの世を去らねばならぬ
蕃人の公憤は出役の多いために
こんな事件になりました。
我等も蕃人に捕われ
どうすることも出来ません。
昭和5年拾月弐拾七日午前九時
蕃人は各方面守ってますから
郡守以下職員全部公学校方面に死せり

一郎は自殺前に鉛筆でわずかに短い文を残していたのです。

「花岡、責任上考フレバ考フル程コンナ事ヲセネバナラナイ全部此処ニ居ルノハ家族デス」

後日、死体が発見され彼らの自決が確認されると、総督府は一郎二郎を盛大に顕彰し、自決場所の
山の名前まで「花岡山」と変えてしまったのでした。

台湾総督府警務局「霧社事件誌」には、この点について下記のように記されています。

「以上の諸点に依つて花岡両名に対する新聞記事其の他巷間に於ける悪評の誤なりしことを知るを
得べし。然るに両名は、自ら霧社地方の先覚者として、此の重大事件を発見し得ざりし不明を深く
恥じ入り、死を以て日本官憲に陳謝したる彼等一族の態度は寧ロ【むしろ】憐愍の情をこそ湧かし
むるものなり。於茲(ここにおいて)水越台中州知事は霧社駐屯地より態々(わざわざ)小富士ヶ丘
を訪ひ、墓標を樹てて花岡両名の冥福を祈り、且つ其の地を永く記念する為め『花岡山』と命名
セリ。」

今年の旧正月は霧社、盧山温泉に行って来て小雨の降る中温泉の裏山にあるハイキングコースを
歩き日本軍と戦ったと言う古戦場跡を訪れました。雨に打たれた真っ赤な霧社桜が印象的でした。
そして翌日廬山温泉を出発して霧社へ戻る途中「眼下に帽子を逆さまにしたような小山が見えたら、
それが花岡山だよ。」と事前に得たせっかくの予備知識も、周りの山々は小雨で煙っていて役に立
たず、しかもバスに乗っていたために見逃してしまい、次回また機会があれば、その時は花岡山を
訪れてみたいと思って帰途につきました。

(注)ブログ「台湾風物情」にオープンセット霧社街の花岡兄弟の壁に書かれた
遺書を載せました。


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