台湾独立建国聯盟日本本部委員長 王明理
私たち、台湾独立派を長年に亘って支え続けてくれた蔡焜燦先生が7月17日旅立たれた。
ここ数年は日本に行きたいが、体調が悪くてね、とおっしゃることが多かったが、今年の4月23日の台湾歌壇50周年記念会では、お元気そうで実に楽しそうだった。
私にとって、一番印象的な思い出は、2012年1月の総統選挙で、蔡英文が落選し、馬英九が再選を果たした時のことだ。台湾独立建国聯盟事務所で、開票速報を見ていた我々が、落胆し今後の政局に暗澹たる気持ちを抱いて沈み込んでいるところへ姿を現した蔡先生は、「また頑張ろう!」と声を掛けて下さった。本当は、一番がっかりしていたはずであるのに、それを口にせず、これまでも頑張ってこれたんだから、これからも頑張ろうよ、と励ましてくれたのだ。
内面に強い意志を持ちながら、人にはいつも優しく温かく接して下さった。
蔡先生は“知日家を越えた愛日家”として、日本でも知られているが、そういう立場に自分を位置づけた先生の人生とは、やはり、李登輝先生の言う「台湾人に生まれた悲哀」と表裏一体であったということを、私は考える。
1927(昭和2)年に日本統治下の台湾で生まれた蔡先生は、日本教育を受け、少年時代を戦時下で過ごした。正義感の強い少年は自然と「お国(日本)のために役立ちたい」と思い、志願して少年航空兵となったが、失意の敗戦を経験した。戦後は、また自然な気持ちとして、今度は台湾人として「お国(台湾)のために役立ちたい」と思ったはずである。多くの台湾人と同じように……。その、希望を無残に打ち砕いたのが、占領軍としてやってきたまま台湾を私物化して居座った中国国民党であった。以後、蔡焜燦先生は人生の70年余りを不本意ながらも「中華民国」体制の下で過ごさざるを得なかった。
蔡焜燦先生が愛日家になったのは、趣味でもなく、日本へ媚びる気持からでもなく、もっと深い哀しさに裏打ちされた哲学のようなものだったと思う。
戒厳令が解除され、日本との交流が自由になってからは、日本人が自信を失っている様子を見て、「日本人よ胸を張りなさい!」と励まし続けた。それは、敗戦国民日本人が自分で言えないこと、外国人が誰も言ってくれない言葉だった。「日本人は立派だったよ、胸を張りなさい」と。
台湾独立建国聯盟台湾本部には、毎週木曜日に必ず立ち寄るのが習慣になっていた。
「台湾人のための台湾国」を目指してがんばってきた聯盟員に「台湾人よ胸を張りなさい!」と、言いたかったのだろう。
楽しいお喋りの達人だった蔡先生は、今、天国で盟友黄昭堂先生と一杯酌み交わしていることだろう。
巨星は落ちず、いつまでも天から私たちを見守って励まして下さるはずだ。 合掌。