平成29年6月13日午前9時40分、門脇朝秀先生が永眠されました。
5月25日に脳梗塞で倒れ意識不明となり、薬石効も無く6月13日に病院にて104歳の御長命を惜しまれて永眠されましたことをご報告させて頂きます。
門脇先生の訃報を知ったのはいつも丁寧なお手紙を書いて下さる曙光会の本間尚代さんからの速達のお手紙でした。
私は仕事で夜勤が続き、訃報の手紙が手に届き読んだのは16日の午後でした。当日は夜勤明けで寝ており、ふいに目覚めた時に手紙が届き、門脇先生の訃報と知り驚きました。
門脇先生に最後にお会いしたのは、曙光会の本間尚代さんや中林さんのお誘いで本年3月27日に埼玉県蕨市の御自宅を同志の有門大輔大兄と訪問して御指導を賜ったのが最後でした。
御高齢にも関わらず、熱心にお話しをされる一言一言に時代の生き証人としての力強いお言葉を発せられる姿はいつもの門脇先生の御健在そのものでした。
特務将校を経て満鉄社員として、大東亜戦争終戦後にソ連管理下の大連で悲惨な抑留生活におかれた満州遼東半島居留邦人25万人を生還させるため、単身奉天まで潜行して米軍連絡部と交渉した逸話はあまりにも有名なお話です。あらためてご本人からお聞きすると門脇先生の偉大さに敬服するばかりでした。
また芝山岩事件での六氏先生の悲話や高砂族の方々の交友なども御自宅で御指導を賜りました。
私は、訃報を知らせて下さった曙光会の本間さんに手紙を読んですぐ電話をすると、「最後に門脇先生の御自宅に訪問したのは渡邊君。そして病室で最期を看取ったのは西村眞悟先生。これも何かのご縁。家族葬で門脇先生が亡くなられたのを知っているのはごく限られた人だけ。貴方にみんなの想いを託すから焼香をだけでもしてちょうだい」と涙ながらに訴えるように告げるのです。私はその手紙を受け取った夜も夜勤作業があり、とにかく仕事に行く準備と葬儀に向かう身支度を慌てて済ませ、夜勤作業と翌朝に控えた作業打合せを途中で退席して葬儀会場に向かいました。
葬儀が行われたのは埼玉県さいたま市にあるセレモニーホール。入口には在りし日の門脇先生のお写真や25万人の邦人を救出した新聞の一面記事、台湾での思い出の品々が飾ってありました。
会式の前に流れた曲は門脇先生が訪台された時に高砂族と歌った「サヨンの鐘」でした。帰路の飛行機の中でもこの曲が流れ門脇先生が台湾軍の歌とならび最も愛する歌が流れました。
平成12年4月4日、東京九段の偕行社で、三笠宮崇仁親王殿下と元台湾高砂義勇隊の方々との交流会が行われました。この仲介をなされたのも門脇先生でした。
門脇先生が昭和の時代に、日本や台湾で撒かれた無私の種は、平成の御世に草の根がやっと宿りました。草の根の草莽運動という根です。この草莽の日台共栄の草の根を育てるのは我々の仕事です。見事アジアに誇る日台共栄の華を我々が育てましょう!
日台共栄の華は、覇権の象徴たる支那の中華の華とは違います。希望の華であり、友情の華であり、世界に誇れる真の平和の華なのです。
門脇先生は御自宅で開口一番にこのように仰せになりました。
「貴方がたが羨ましい。あの支那共産党や北鮮の一党独裁の暴力政治が音を成して崩れる将来が見れるのが羨ましい。私は予言が出来るが見ることが出来ない。こっちが先に目をつぶってしまう」と・・・。
門脇先生は約104歳の人生を国の為に奔走されました。門脇先生の御尽力に比べれば我々の力なんて比になりませんが、門脇先生の人生の1割である約10年をみんなが真剣に取り組めば草の根運動に華を咲かすことは出来るはずです。
門脇先生は「俺のことを偲ぶより日台共栄のために頑張れ!俺はあの世で見ているよ!」ときっと喝破なさることでしょう。
門脇朝秀大人命(うしのみたま)の平安を謹んで御祈り申し上げ、甚だ僭越ではありますがご報告とさせていただきます。
埼玉県川口市在住 日本の心を学ぶ会 代表 渡邊臥龍