【真相】台湾の国際法上の地位は未定

【真相】台湾の国際法上の地位は未定  

     宗像 隆幸(台湾独立建国聯盟本部中央委員)

 大日本帝国が連合国に対する降伏文書に署名した1945年9月2日、マッカーサー連合国軍
最高司令官は「一般命令第1号」を発令して、各地の日本軍が降伏すべき相手を指定した。
この一般命令第1号によって、日本の植民地であった台湾の日本軍は中華民国の蒋介石総帥
への降伏を、同じく日本の植民地であった朝鮮半島の北部にいた日本軍はソビエト極東軍
最高司令官に、南部にいた日本軍は米国太平洋陸軍部隊最高司令官に降伏を命じられた。
1948年、朝鮮半島北部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として、南部は大韓民国(韓
国)として独立国家になった。

 1949年10月1日、内戦に勝利した中国共産党は中華人民共和国を樹立、内戦に破れた中国
国民党は12月8日に中華民国が台湾に遷都することを決定した。

 1951年9月8日、連合国と日本国の間で「サンフランシスコ平和条約」が締結され、1952
年4月28日に同条約は発効した。同条約によって、日本は朝鮮の独立を承認し、朝鮮に対す
る全ての権利、権原、請求権を放棄した。同条約によって、日本は台湾と膨湖島に対する
全ての権利、権原、請求権も放棄したが、台湾と澎湖島の帰属については一切決定されな
かった。

 サンフランシスコ平和条約の討議には中華人民共和国も中華民国も招待されなかった。
1950年6月25日、北朝鮮軍が韓国に侵攻すると、7月7日に国連安保理事会は北朝鮮の侵略を
阻止するために、国連軍を朝鮮に派遣することを決定した。米軍を中心とする国連軍が北
朝鮮軍を中国との国境近くにまで追いつめた同年11月19日、中華人民共和国(中国)は北
朝鮮を救援するために朝鮮に軍隊を派遣し、1953年7月に休戦協定が締結されるまで、中国
軍は国連軍と戦うことになった。

 このような状況だったので、日本は台湾しか支配していない中華民国と日華平和条約
(1952年4月28日署名、同年8月5日発効)を締結した。この条約を締結する交渉で蒋介石政
権は、「日本は台湾と澎湖島を中華民国に返還した」という条項を入れることを主張した
が、日本は「サンフランシスコ平和条約で放棄した台湾と澎湖島」の帰属について如何な
る権限も有しないと主張した結果、日華平和条約は日本が台湾と澎湖島を放棄したことを
確認するだけにとどまった。

 1952年5月28日、衆議院外務委員会における日華平和条約に関する討議で、吉田内閣の政
府委員は、「日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した台湾と澎湖島の帰属は未定であ
るが、現実に台湾と澎湖島を支配している中華民国政府と日華平和条約に署名した」と回
答している。

 1964年2月29日、衆議院予算委員会において、社会党の岡田春夫議員の「台湾の帰属は条
約上未確定であるという見解が、政府の見解でございますが、これは間違いでございませ
んか」という質問に対して、池田勇人首相は「日本は放棄しただけでございます、連合国
に対して。したがって、これを客観的に、連合軍が確定しておりませんから、未確定と言
い得ましょう」と回答している。

                            (2012年4月14日)
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宗像隆幸(むなかた・たかゆき)
昭和11(1936)年、鹿児島県生まれ。明治大学経営学部卒。同36(1961)年、台湾青年社
に参加、月刊『台湾青年』の編集に従事。同60(1985)年から停刊する平成14(2002)年
まで同誌編集長。台湾人元日本兵の補償問題を考える会幹事などを歴任。台湾独立建国聯
盟本部中央委員、アジア安保フォーラム幹事、日本李登輝友の会理事。主な著書に『台湾
独立運動私記─三十五年の夢』『台湾建国─台湾人と共に歩いた四十七年』『存亡の危機
に瀕した台湾』など。共著に『新しい台湾─独立への歴史と未来図』(王育徳)など。

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