【産経正論】戦後日本が怠けた安保の再建を

【産経正論】戦後日本が怠けた安保の再建を 
2020.11.2産経新聞

        杏林大学名誉教授・田久保忠衛

 善し悪(あ)しは別にして、これまで政治家が自ら唱えたり、抱懐してきた国家像にはそれぞれ意味はあったと思う。「軽武装・経済大国」「普通の国」「ハンディキャップ国家」「戦後レジームからの脱却」「美しい国へ」などである。現在までのところ、菅義偉内閣には相当する国家像はみえていない。当然ながら外交・安全保障政策は内政同様に、当面の懸案をいかにうまく捌(さば)くかに力点が置かれ、文字通りの実務内閣になりつつあるように見受ける。

 ≪優等生の模範答案だけでは≫

 同盟国としての米国を最重視し、安倍外交の継承である「自由で開かれたインド太平洋の実現」を目指し、東南アジア諸国連合(ASEAN)の重鎮であるベトナムとインドネシアを訪問した。

 巧みな外交というか、日本的気配りと称すべきか、昨年、ASEANが発表した「インド太平洋概観」に歩調を合わせ、南シナ海で「法の支配に逆行する動きが起きている。緊張を高めるいかなる行為にも反対する」と中国を牽制(けんせい)した。さりとて王毅外相が「米日豪印によるインド太平洋版のNATOをつくる企てだ」と非難するや「そのような考え方は全くない」と否定し、習近平国家主席の訪日予定も取り消してはいない。優等生の模範答案のような外交だ。

 ただ、平和に対する願望が強ければ強いほど外交は宥和(ゆうわ)的にならざるを得ない。尖閣諸島問題だけ取り上げても、「領土問題は存在しない」と強くはねつけていた方針は現在どうなっているか。日米同盟の枠内の安全が当然と安心しきっている間に見えない形で既成事実が次第に積み上げられていく。

 狼(おおかみ)少年の譏(そし)りを受けるのを承知の上で、あえて危機を口にするのは、最近改めて読んだ「参謀総長の日記」(アーサー・ブライアント著、新庄宗雅訳、昭和55年フジ出版)から強烈な印象を受けたからである。参謀総長とは第二次大戦中に英国のチャーチル首相の下で参謀総長を務めた知将アランブルック元帥で、ドイツ軍に対抗するフランス軍支援の英軍部隊司令官として派遣され、わずか1カ月で白旗を掲げたフランス軍の様子をつぶさに観察した迫真の文章を含んだ膨大な日記を認(したた)めている。

 ≪噴火山の上にいること忘れ≫

 ポーランドを制した後、ドイツ軍がフランスを急襲する直前の日記に「国中すべての者が日曜日の晴れ着を着ており、噴火山の上に腰を下ろしていることをすっかり忘れているように、われわれが今戦争をしているとは信じられないくらいだ」との記述がある。これを書いて床に就こうとしているときに、彼はフランス軍最高司令部からベルギー経由でドイツ軍が即時攻撃を開始しようとしている情報を知る。祖国のため喜んで死のうとするフランス人は多かったが軍首脳は電撃戦に抵抗する準備を完全に怠った、と痛憤している。

 アランブルック元帥も有事に際して気づくのだが、われわれ日本人も「噴火山の上に腰を下ろしていることを」すっかり忘れていないか。世界中がコロナ禍に気を取られているときに軍事的脅威を説かれてもピンとこないと感じる人々は少なくないのは承知している。が、尖閣諸島の第一線にいる人々や、朝鮮半島の軍事情勢の観察者らが受けている異常な緊張感と一般国民のムードの間にはあまりにも開きがあり過ぎる。

 すでに研究者の間では論じ尽くされた問題だが、元帥はフランスがドイツに対する要塞線として構築したマジノ線への依存心の異常なまでの強さをいたるところで指摘している。依存心は、陣地を固守して死ぬまで戦えという命令を生み、悲劇につながった。戦後の日本にとってのマジノ線は日米同盟だ。これに一方の当事国の日本だけがどっぷり浸(つ)かって恩恵を受けているのは不公平だとの批判を昨年行ったのはトランプ大統領だった。日本側はいつもの大統領による暴言扱いにして済ませているようだが、日米安保条約も時代の変遷に応じて再検討の時期に来ていると解釈すべきではないか。

 ≪首相は制服組から秘書官を≫

 日記でとりわけ感銘したのは、厳密なシビリアン・コントロールの下で、優れた判断力を持つチャーチル首相と戦略家のアランブルック元帥の緊密な連携プレーである。英国の安全保障に時間も場所も問題ではない。首相の寝室で早朝打ち合わせをする場面が登場するが、健全な政軍関係の手本を見る思いがした。

 戦後の日本が怠けた安全保障の分野は七十数年のうちにさらに様変わりした。ミサイル、核兵器の進展からサイバー、宇宙空間に至る広範に及ぶ難問をスピード感をもって処理するにはどうしたらいいか。

 菅首相には、官庁の縄張りを無視して手始めに、制服組から首相秘書官を採用すべきだと提案したい。歴代の首相で最も制服を重視したのは安倍晋三前首相だった。幹部と食事を共にしたと誇った首相もいたが、子供じみた話では通用しない時代である。菅外交がもう一歩前進することを祈る。(たくぼ ただえ)


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