国民新聞より転載
王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長
その時、王育徳は中村氏同様に数十万人の台湾人元日本兵士の問題が、未解決のまま忘れられてきたことに気付き、放っておけずに行動を開始したのである。
王は、知人に声をかけて、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」を発足させた。事務所は王の自宅、活動の裏方は台湾独立聯盟メンバーであった。
始めてみると、この問題を解決するには、国籍条項などの法律に加え、外交関係がないという非常に高い壁がそびえたっていた。
運動の経緯を詳しく述べるには紙幅が足りないので、結論を先に言うと、一九八七年、議員立法によって法律が作られ、すべての台湾人戦死者遺族、戦傷者に対して、一律に一人二百万円の弔慰金が支払われることになったのである。総額にして日本の国家予算五六二億円を使っての補償実現を勝ち取ったのだ。
特記すべきなのは、国交のない台湾の住民に対して、日本人が官民一体となって、これを解決したという点にある。台湾人に同情した一般の人達から寄せられた活動資金カンパは三五五〇万円を超えた。最高裁まで闘った弁護士団でさえも、六年間無料奉仕であった。国会議員たちも、自分の選挙には一票にもならない台湾人のために、党派を超えて連繋したのである。王育徳の果たした役割は、この問題を提起し、「考える会」を組織し、その善意のエネルギーを一つの方向に動かしたことである。
逆に、台湾政府は、協力するどころか、活動が始まって3年目には、「王育徳という独立運動者が関わっている以上、この件には協力できない。あなたも手を引いたらどうですか」と日本の関係議員に圧力をかけてきた。王と台湾独立聯盟の盟員は、以後一層、裏方に徹したので、今でも、王育徳と聯盟が補償実現にどれほど尽力したかは台湾ではほとんど知られていない。
この運動には、王育徳が日本で五十歳までに得た人間関係が大きな力となった。王の人脈がなかったら、この難問は解決できなかったと私は思っている。又、活動のノウハウは長年、台湾独立運動で培ってきたものであった。
市民運動では、活動方針の違い等をめぐって途中で袂を分かつ場合が少なくないが、台湾人元日本兵士の活動においては、十数年間、一度も仲違いや仲間割れがなかった。当時のことを訊ねると、「王先生がいつも中心にいて、ニコニコしていましたからね」と話す人が多い。
王育徳は解決を待たずに、一九八五年、二審判決の後、心筋梗塞の発作で急逝した。
一つ言えることは、王がやらなければ、この台湾人元日本兵の問題は世間に知られることもなく、ヤミに葬られていただろうということだ。総額五六二億の日本の国家予算を使っての台湾人への補償は、王がそのきっかけを作ったということは間違いない。