【湾生は語る】台中にて

【湾生は語る】台中にて

メルマガ「遥かなり台湾」より転載

湾生という言葉は台湾に住むようになって初めて知りました。戦前台湾で生まれ育った人たちの
ことを湾生と呼んでいるのです。湾生の人たちにとって今は異国となってしまった台湾は今でも
心の郷愁の故郷なのです。今回は湾生の人が記した「台中にて」をお届けします。この中に記し
ている2中とは日本人子弟の通った台中第二中学であり、2中は戦後移転しまい今は台中高農に
なっています。でも戦前の2中同窓生にとっては校名が変わろうと母校にかわりないのです。
文頭にある高速道路は1978年(昭和53年)に開通したことから、この文章は翌年に書かれたもの
で引揚後30数年後に筆者は台中や母校の思い出を記していたのです。

●台中にて                  堀部二三男

今年の元旦は台中で迎えた。前日に台北から昨年の10月に開通したという高速道路を通って来た。
僅か3時間で着いてしまった。台湾にも大きな近代化の動きが感じられた。あとから聞いた話だが、
高速道路と前後して完成した鉄道の電化が、開業直後に機関車の故障で動かなくなり、世間の非難
を浴びたと言う。何処かがヨーロッパの製品だったらしく、日本のものを買えば良かったのにとい
う落ちがついたのには微笑ましくなった。
 高速道路から台中へのインターチェンジを出ると、広い道路に沿って立派な家並みが続いている。
然しその沿道の何処にも見覚えがない。やっと見覚えのある建物を見かけたら、そこはもう町の中
心に近かった。私たちの住んでいる頃は人口5、6万。今は5、60万という。あの落ち着いた小都市
のたたずまいを知っている人は、今の台中には案外と少ないのかもしれない。
 今度の台湾旅行には3つばかり大事な用事があった。その1つは大晦日の昨晩、台中で無事に終
わった。戦前この町で医院をやっていた兄が、台中でお世話になった人々をお招きして一席設けた
いという意向を以前から私に伝えて来ていた。それを昨晩実行したのである。20数名の方々に来て
いただいた。彼らの見事なホスピリティは、主催者である我々兄弟をむしろ客のように扱ってくれ
た。その席上、古い友人知人の子供さんたちの中に日本語を解する人が少なかったのはやむを得な
いことであった。私はこのような日のために、昨年の春から中国語を習っていた。週に3回夜の2
時間を生みだすことは相当な難行であったが、何とかこれまで続けて来た。実はその前の年に台湾
に行ったとき、知人の子供さん達と顔を合わせていて、お互い好意を持ちながら共通の言語がない
ために、ただニコニコしているだけでバツが悪く歯がゆかったのが、直接のきっかけであった。中
国語は入り易いが、少し進むとどの言語にあるように、ある種の困難にぶつかる。その困難を感じ
はじめたときの台湾旅行であった。内心どのくらい通じるか楽しみであった。しかし、台北の飛行
場で、知人の立派な日本語に迎えられて、中国語を口にするきっかけを失ったように思えた。しか
し、私は昨日の宴会の席で、日本語を話せぬ人達に何とか中国語で話をしようと努めた。酔いが手
伝ったのであろうが、そのために更に酔ったのも確かである。しかし彼らが私の話によく笑ってく
れたのは彼らの好意ではあったろうが、私の努力もいささか報いられたと、元日の寝覚めはすこぶ
る快調であった。
快い寝覚めは気温との関係があったようである。窓から爽やかな朝の風が入って来る。正月だと
言うのに一晩中窓を開けて寝ていたのだ。私は兄には声かけずに宿を出た。通りの屋台でユーチャ
コエを売っている。私は揚げたてのそれを2本と豆乳を注文した。しめて40円、私は満足した。
宿は昔私が住んでいた家の近くであった。私はここから中学に通っていたときのことを思い出した。
そうだ。2中に行ってみよう。私は30数年前の昔に通い馴れた道をためらわずに歩き始めた。道は
昔のままの屈曲を示しているが、建物はほとんど変わっているように思える。時に記憶のある建物
を見るとえらく感傷的になる。そして様々なことが思い出される。
2中は昔の実感よりも遥かに近くにあった。挨拶して入ろうと思ったが、休みのためか早朝のた
めか人影がないのでそのまま入って行った。中庭の方に廻ると、開校当時に建てた平屋の教室が高
いものに変わっている。こんな木があったのかと思うほどに樹木が大きく育っている。私はその木
の下のベンチに腰を下ろした。玉山の姿を求めたが見えない。昔は田んぼと甘薯畑だった校庭の周
りにはびっしりと家が建っている。
私たち兄弟6人がこの学校を卒業した。兄弟の序列に学校の先輩後輩の序列までついてはたまっ
たもんではないと、末の方に近い私は昔よく思ったものだ。しかし今こうしてこの学校の庭を眺め
ていると、私の兄弟、その友人が幾十年の昔にこうしてここの学校で学び遊んだのかという感慨が
湧いてくる。
私は立ちあがってゆっくりとトラックを歩き始めた。このトラックの草取りをしたことがあった。
手の入らない夏休みには、校庭全体に背丈ほどに雑草が生い茂ったことがあった。トラックを一周
して寮のあった方から外に向かった。靴屋が終日トントンと生徒の靴を修理していた便所あたりは
そのままであった。
校門を出たばかりの所で子供の群れに出会った。5、6人の男の子が小さなコロコロした犬と遊
んでいる。停仔脚の下で無心に子犬と戯れている子供たちは可愛かった。私は自分の心が和してい
るのが分かった。そして今は異国であるはずのこの土地が、どうしても私には異国とは思えなかった。
それは郷愁と言う個人的な感情が、この町この土地への愛を感じさせているからではなかろうか。
私を育ててくれたこの町とこの自然。私はこの町のために何かしたいと思った。台中のため、そして
台湾のために私は何が出来るであろうかと考えていた。そして、奇しき縁で同窓となった台中2中の
人々と、このことについて話し合いたいと思った。


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