家村和幸
▽ ごあいさつ
皆様、こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。今回は「武士たちが遺した教え」の第二回目といたしまして、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将・楠木正成(大楠公)の遺訓を紹介します。
楠木正成は、兵法の天才であるとともに、最期まで勤王を貫いて闘った人物です。この智恵と仁愛と勇気を兼ね備えた武人・楠木正成が子孫に伝えようとした戦いの教えを後代の人たちが書物にしたものが、『河陽兵庫之記』『楠正成一巻之書』『南木武経』などの「楠流(くすのきりゅう)兵法書」です。今回は、これらのうち『河陽兵庫之記』の中から武士道精神に関する記述を抜粋し、現代口語文にして紹介いたします。
それでは、本題に入ります
【第6回】武士たちが遺した教え:大楠公の遺訓(楠流兵法書から)
▽ 優れた武士の条件
勤勉、慎重さ、信義、礼節は全て兵の四徳である。(河陽兵庫之記一「慎独」)
健康で勇気があり、正しくて英智に富んでいながらも慮り深く、事に当たっては意図を決し、上級者を敬い下級者を慈しみ、言うことが邪(よこし)ま(道理にはずれていて、正しくないこと)ではない人物こそが上の武士である。
厳しくて誤りやごまかしを少しも許さずに勤め、一見して勇気があり、芸才に富んでいるかのように見えたとしても、多欲であり、或いは知識が無く、道理にくらく愚かであって、義(正義・道義)が当然のことであることを知らない者は中の武士である。
勇気は血気に随い、或いは果敢にしてその身を顧みない者であったとしても、主義・主張を捨てよと強制された場合に、信条を貫き通して潔く死を選ぶことができず、未練にして不覚をとるようであっては下の武士である。(河陽兵庫之記一「知運」)
各々が我心を大いに治め、安定させようとすることを知る時には、四方に敵はいなくなるものである。(河陽兵庫之記二「威令」)
▽ 智恵について
闘争とは、君子(理想的な人格者)が行わないものでありながら、それでも正義を争い、善悪を闘わせることは、更に哲主(物事の道理に明るい人物)や名士(経験が豊かで識見が高い人物)の為せるわざなのである。(河陽兵庫之記一「遺誡」)
立派な人とつまらぬ人と、智に至るのと愚に至るのと、その根源を思えば、ただ独り慎むか慎まないかの違いである。独りであることを慎んで自ら心に欺くことがなければ、礼節や信義もまたその中を外れることはあり得ない。天地の神明、物と推移して、智もまた霊々了々となるものである。(河陽兵庫之記一「慎独」)
およそ天の道を知らない者は、地の道、人の道についてもわかっていない者である。天道というのは、陰陽が交互に推し移って寒さ暑さをもたらし、人生と死と栄誉と屈辱と、これらは全て天道から来るのであって、人のなす業でなない、ということなのである。
この心をよく自分のものとした時、諸法(宇宙の一切の現象)を疑うことが無く、この道にも疑いが無くなる。疑いがない時には、すなわち私がない。私がないときには、すなわち人の心を知る。人の心を知る時は、すなわち物事がはっきりとよくわかってくる。あらゆる事がはっきりとわかっている、これを良智という。(河陽兵庫之記一「慎独」)
天を測り、時を測りながらも、人の情を測ることがない。これを人に逆らうという。時に到ってその勢いを測りながらも、事機をつかむことが出来ない。これを事機に昏い(暗い)という。智者(道理をわきまえた人)は、天地にも逆らわず、事機にも暗くなく、鑑が明るく澄んでいて映らない影が無いようなものである。一切の私心を払い去って人に接し、人に先立って万事を治める。(河陽兵庫之記二「三通」より)
素書にも「古を推し今を験み、以て惑わざる所なり。未然を欲せば先ず既往を察せよ。(昔のことを推察してから今現在のことを試みよ。そうすれば戸惑うことはない。未然に防ぎたいことがあれば、先ずこれまでにあったことを観察せよ。)」とある。(河陽兵庫之記五「追勝」)
昔の人の心を師として、その書残された言葉を自らの心に宿めて師とすることができない者は、ただ伝えられるままに昔の戦での勝利を、昔の戦術を用いて説明するだけであり、今でも通用するものにはならない。それとは逆に、そのような昔の人の心や言葉にも必ず思いを回らせて自分の智恵を新たにすることこそが重要なのである。(河陽兵庫之記五「検地」)
▽ 仁愛について
心を明鏡の如くに磨いて物事に疑いを持たないこと。博く衆人を愛して親疎なく、その扱いが偏っていて公正を欠くようなことがなく、等しく馴(な)れ親しんでいながらも、その人々が優れているか、そうでないかをも量り知れるようでなければならない。(河陽兵庫之記一「知運」)
人を斬り殺すことは世間では忌み憚られるにもかかわらず、道に背いた者はこれを斬り、道を行きてその心に得ることある者(徳のある者)はこれを賞し、一人を殺して千万人を助(扶)ける、これこそが「兵」の大いなる徳行についての正しい見識の持主なのである。このような場合における武器は、凶器ではない。従って、兵は殺すことによって博愛をなすのである。(河陽兵庫之記一「遺誡」)
懲悪攘乱(悪を懲らしめ、乱を打ち払う)の徳は、最高の徳であり、これに及ぶものは何も無いのである。(河陽兵庫之記三「五事」)
徳をもって敵を屈服させるのが上兵である。謀をもって敵を亡ぼすのはその次である。兵をもって敵を撃つのは下術である。(河陽兵庫之記四「奇備」)
▽ 勇気について
大勇というのは、偉大な人の勇気であり、優れた将軍の心である。自らが武器を直接手にして敵を打ち破ることは無いにしても、常に軍を勝利に導くことにより軍内の実権を掌握し、十分に慮り、怒りにまかせて刹那(せつな)的に行動すること無く、疑ったり躊躇したりせず、一度決心すれば死生を超越し、その道義心は金石のように堅固にして輝き、数万の兵卒の勇気の消長は将軍の一身に懸かっている。これが大勇である。
心が正直で常に勇気を持ち続け、悪口を言われても気に留めず、敵を見ればわが身を顧みず、筋金入りの骨身と鉄石の心ではあるが、しかしその器量は偏狭である。これを小勇という。
血気は旺盛であり、勇猛さと鋭さは千人の敵に匹敵するが、信義が少ないために意志が変化し易く、死生観も定まっていないのを血気の勇という。(河陽兵庫之記一「勇分」)
これまで令が正しくなされて人がこれに服従しなかったことは無く、服従して剛毅になれば人は常に死を恐れない。兵自ら進んで死んでゆくようであれば、戦は必ず勝つ。このようにして我が兵士全員が道義に殉ずる時は、貧しく賤(いや)しい身分であっても天地の中で何ら恥じるところがなく、たとえわずかな兵力であっても大敵を恐れることもないのだということを知ることで、上級者と下級者の皆がその義心を鉄石のごとく強固にする時、初めて天下の統治がこの道の上になされることを知っておかねばならない。(河陽兵庫之記二「威令」)
従来、人の世の栄枯死生の事は天命であり、いささかも人間の思慮や按排(あんばい)の及ぶものではない。進んでも死なず、退いても生き残れないこともあるのだということを肝に念じて、無益な工夫などせず、未練の分別を捨て、専ら後の世に名を遺すことだけを示し、兵が皆執着(しゅうちゃく)を離れて、目指すべき道を勇ましく躍進すべきであるという事を知るべきである。(河陽兵庫之記二「威令」)
▽ 己を捨てて公に尽す ─ 道理について
この兵の道には常に弓馬の技を練り、威武(武力に優れ、見るからに勇ましいこと)をもって世の中を統治するとはいっても、元より、その道の道たる所を悟って、あらゆることに於いて私を捨て、一向に常住(変化しないで 常に存在すること)の思いを抱いてはならないのである。(河陽兵庫之記一「兵道」)
およそこの道には義に死するという栄誉だけが有って、不義に生きるという辱めはあり得ない。しかしながら運命に十分に深く通じていなければ、時として過ちを犯すこともある。もしも過ちを犯して、物の道理に於いてこれをできる限り正さなければ、たとえ自己満足して死んだとしても、公私のために何の益するものがあろうか。(河陽兵庫之記一「知運」)
道理というものは、上下相互に正当であって、人としての忠義を尽くす事である。人は誰しも生まれたときから、自らの内に天命の善を有するものである。上に立つ者に仁義の道があれば、下の者は必ず帰服しようとするのである。(河陽兵庫之記三「五事」)
君と臣と、父と子と、天下のためと我一己のためとで何かをするのであれば、君と父と天下のためにすることを選び、臣と子と己のためにすることを捨てるのが道である。理である。(河陽兵庫之記三「五兵」)
あらゆる心の動きの中でも、人を尊いとするものは、ただその道理を知ることをもって尊いとするのである。(中略) 我が子孫たるもの、もしもその生涯に南北朝の争乱のような事態があれば、いかなる時も自らの命を君のために奉げて、できる限りの謀計を回らし、それが叶わなければ屍を義の路に曝そうと思うのであれば、道理は必ずその中にあるのだと知るべきである。(河陽兵庫之記三「五兵」)
武の道における死は志をもって忠節を顕わし、家を失い、名を捨て、主君のためには定死をも逃れない。これが義であり道である。(楠正成一巻之書「人を知べき事」)
【解説】
楠流兵法の伝流には、陽翁伝楠流、南木流兵法学、河陽流兵法学の三つの系統があるが、これらに一貫しているのは、「兵法の修学は『心性を悟り、諸民を親愛する』を上とし、『計謀によりて学ぶ』を中とし、『戦術をむさぼり習う』を下とする」という教えである。それゆえ、楠流兵法書には単に戦(いくさ)に勝つための戦略・戦術だけではなく、武士とは人としていかにあるべきかや、人間の心理に関することが数多く書かれている。
今回紹介した『河陽兵庫之記』は、戦国時代末期に発祥の萌芽があったとされる「河陽流兵法学」の代表的な兵法書である。河陽流兵法学は、その始源を楠木正成に求めながらも、その後は楠氏の家系を経ることなく恩地氏・赤松氏などの諸氏十一代を経て、河宇田氏三代に伝わり、伊南芳通(いなみよしみち)という人物に至って会津藩に定着した。
河宇田氏の一代目・河宇田義夏は、泉州(現在の大阪府南部)細川氏に仕え、天文15(1594)年頃に河陽流兵法学を伝えていたが、乱を避けて江戸に移住した。そして義夏の子・永白叟が文禄3(1594)年に『河陽兵庫之記』を著すことで、河陽流兵法学を学問的に総合整理したのである。
河陽流十八世を継いだ会津藩士・伊南芳通は、少年時代から武芸に優れ、江戸で数々の流派の軍学を学んでから、寛文元(1661)年に会津に戻り、藩主・保科正之に仕えて河陽流兵法学を講じた。天明8(1788)年、会津が公式な兵法学を河陽流から長沼流に切換えたため、会津藩における河陽流兵法学は衰退した。
しかしながら、幕末期に会津藩主・松平容保が京都守護職という“火中の栗を拾う”ような役目を毅然として引き受けたことや、会津藩だけが最後まで徳川幕府への忠誠を尽したことからも、河陽流「大楠公の遺訓」は、会津藩における「伝統精神」の基礎を形成し、会津藩士たちに脈々と受け継がれてきたものと考えられる。
(「大楠公の遺訓」終り)
(いえむら・かずゆき)
《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
【家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】
演 題 第二回『「楠正成一巻之書」を読む』
日 時 平成25年4月27日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場 所 靖国会館 2階 田安の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
【第12回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】
演題『日本を守るには何が必要か=日米”友好”と日中”嫌悪”の実態=』
日時 平成25年5月12日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 偕行の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
FAX 03-3389-6278
件名「国防講座」又は「兵法講座」にて、ご連絡ください。