国民新聞11月号より転載
「台湾の声」編集長 林 建良
●日本を病弱にした「中国を刺激するな」症候群
中国の横暴ぶりは目を覆うばかりだが、今の我々に必要なのは中国の悪行を並べ立てるよりも、中国という名のガン細胞をどう退治するかが肝心だ。日本にその気さえあれば中国ガンは退治できるが、問題なのは日本にはその意欲がないことだ。戦後の日本は「中国を刺激するな」症候群に罹っており、その病気が治らない限りは中国のいかなる横暴にも対処できないのだ。
日本の「中国を刺激するな」症候群さえ治れば、中国ガンの退治は決して難しいことではない。中国に対して攻めの姿勢に転換すればよいことなのである。中国の急所と言えば、「人民」と「環境」の二つのキーワードであろう。中国ガンの退治には急所を攻めるのが一番なのだ。
●中国政府の最大の敵・中国人民
中国の治安維持予算は2010年から軍事予算を上回り、毎年二桁のペースで増額している。軍事予算は外部の敵を撃退するための予算とすれば、治安維持予算とは内なる敵を撃退するための予算と言えるだろう。その予算が軍事予算を上回っているのであれば、中国当局が今一番恐れている敵は自国民なのである。つまり、中国人民を攻めの勢力にできれば、中国共産党政権の崩壊もそう遠くはないのだ。日本にできる具体的な方法は中国人民の側に立ち、中国人の人権や民主化運動家を保護する「中国人権法」の制定だ。
●「中国人権法」
人権、民主、自由は中国共産党政権の一番嫌がるイシューだ。ゆえに、中国国民の憧れであることは明らかなのだ。日本が中国国民の人権保護や民主、自由への追求を法制化で支持すれば、中国当局の逆鱗には触るが中国国民から歓迎されるだろう。日本もアメリカも「北朝鮮人権法」を制定しており、明確に北朝鮮の人権を擁護している。その中国版だけのことである。日本は中国の人権状況を監視し、中国当局に弾圧されている民主化運動家の救出や庇護を法制化すれば、中国の民主化運動の大きな力になり、中国の人民側に立つことになる。
当然それは中国当局を刺激することになり、中国共産党のヒステリックな反応も予想できる。「内政干渉」の非難を始めとし、官制反日デモなどありとあらゆる手段を使って日本に楯突くだろう。しかし中国の民主化運動家はこの法律によって日本との連携が取りやすくなり、長い目でみれば中国人の反日感情を和らげる効果がある。日本が世界に先駆けて中国人権法を制定すれば、世界中から尊敬を得られ、国際社会における発言力も強まる。
そもそも、百年前の中国の革命を助けたのは日本ではないか。日本の援助や庇護がなければ、辛亥革命の成功もあり得なかった。日本はその気概と責任感があったからこそ、中国人にも尊敬されていたのだ。
●「環境関税」
中国を攻めるもう一つの武器は「環境関税」(eco-tariff)である。「環境関税」の概念は目新しいものではない。90年代からすでに環境関税の概念があり、アメリカもEUも導入している。世界一汚染度の高い中国にとって、日本からの環境関税の徴収は中国製品の競争力の低下に繋がる。相対的に日本企業の助けになり、当然中国に投資している日本企業にとってはコスト高になり、中国投資の魅力は減り、資金や技術の中国流出を食い止められる。中国の環境汚染は中国国内に止まらず、日本にも害を及ばしているため、環境関税は日本の国民にも支持されるだろう。
事実、今の中国の汚染問題は世界規模であり、辺境地である黒竜江省のハルビンでさえも防毒マスクが必要なほどに空気が汚染されている。空気も水も土地もほとんど汚染されているのが中国の現実である。環境関税の実施は中国の環境問題の解決になり、ひいては中国人の健康にも寄与する。中国政府や中国企業は反発するだろうが、多くの中国人には自分たちの健康を守ってくれる優しい政策になるというわけだ。これも中国人を味方にする戦略の一つと言えよう。
技術的には環境関税の課税基準を定めることは決して難しいことではない。日本に製品を輸入している外国企業にその生産地の環境汚染度を応じて課税すればいいことだ。例えば、二酸化炭素の放出量と廃水量を計算すればその企業の汚染度が分る。今や二酸化炭素の排出量が取引される時代なので、そのチェエクも当然可能なのだ。差別と言われないために外国企業全般を適用させる法案にすればよいのだが、世界一汚染度の高い中国はその尤もの対象になることは言うまでもない。
●日本は中国と向き合う気概があるか
人権や環境問題で中国を攻めるなら国際社会からの支持も得やすい。しかもこれなら中国の既得権益者である政府高官や企業から中国人民を分別させることができ、その矛盾を突き拡大させることも可能になる。歴史問題で攻撃され続ける日本は守りの姿勢から攻めの姿勢に転換すべきではなかろうか。
日本にその気概があるのかは、私にもよくわからない。日本首相の靖国神社の参拝もできないなら、それはないと言わざるを得ない。