【司法殺し屋には負けない】再び台湾前進の糧に

【司法殺し屋には負けない】再び台湾前進の糧に

   王 紹英   (元日本台湾医師連合会会長)

とうとう、馬英九が化けの皮を剥ぐし、司法殺し屋(残念ながらほぼ全員台湾人)を駆使し李登輝総統を迫害しようと企んだ。このニュースは世界を震撼したが、予測できてサプライズでも、驚愕でもないはずだが、真夏にもかかわらず一瞬背筋に寒気が走った。節電効果抜群と馬英九に感謝したくなる。

周知のとおり、馬英九が台北市長に当選できたのは、李登輝総統の力添えと彼の「新台湾人」の一言のお陰ではないか。ところが、反対の姿勢を明白にした李登輝総統を恩知らずに噛み付いた。馬英九が自分の育てた恩人の人格を(出来たら身を)抹殺しようと着々と進もうとしている。これは裏切り、恩知らずの行動だと思われるが、中華意識に沿った必然的な政治手段に過ぎない。このとこを予見できなかったのは、少々中華音痴と改めて指摘したくなる。

今になって馬英九を「新台湾人」と持ち上げたことは、歴史的な過ちであったことは言うまでもない。「新台湾人」はこの中国人が台湾人を玩弄した選挙の道具に過ぎなかったのは火を見るより明らかである。中国人が台湾人を愚弄しようか、迫害しようか、抹殺しようか、中国的倫理には全く反しせず、中国的良心の行くままである。馬英九の中国人的立場から見れば、当然しなければならない仕事に過ぎないのだ。彼はこれからも淡々と他人ごとのように自分の権力の邪魔者を粛清しようを考えているに違いない。この李登輝迫害事件を青天の霹靂と思った人は中華意識の凄みについて不勉強の証である。

政治迫害は中国人の慣例であり、伝統である。政治迫害抜きに中国人の政治行動は理解不能になる。迫害の結果に身の抹殺もしくは自由の剥奪しか待っていないのだ。もっとも有名なのは、最後の228事件と言われた林義雄母女殺害事件(1980年2月28日白昼、美麗島事件の公判中の林義雄の母親と双子の娘が秘密警察に殺されたみせしめ事件)は前者であり、最近の陳水扁の「汚職事件」は後者である。

李登輝総統は身の潔白を証明できるかどうかは、馬英九の権力への計算に掛かっている。政治迫害である限り、弁護士の努力も、裁判官の「公正」も、茶番劇に過ぎず、「身の潔白」と全く関係ないのだ。馬英九が李登輝総統の「潔白」が自分に有利になれると思ったら「潔白」が証明されるし、李登輝総統が「汚職」にしたほうが有利と測ったら「汚職」にする、と極めて単純明快である。そこに法も理も情も証拠も入る余地は全くない。

中国人に苦汁をさんざんとなめされた李登輝総統は何故中華意識を排除しようとしなかったのか、排除できなかったのか、を論ずるのは難しすぎる。当時も、今も台湾人は深く中華意識に浸っている。しかし、民主の精神は中華意識とは相容れずものであり、一時、民主化を手に入れても、民主化の果実はやがて中華意識に虫食いされる。民主も自由も腐っていくと思われる。そうなっても自業自得と冷笑されるのは想像するまでもない。

幸いにも、慈悲深い軟弱な台湾人は圧迫されればされるほど、叩かれればされるほど反発したくなるこの世にも珍しい「徳」を持っている。

李登輝総統が中国人に迫害されることに台湾人は反発し、再び立ち上がってくれるでしょうか。歴史を振り返ってみると、運良く肝心の節目に台湾人を奮起させる事件が度々起こる。この事件で台湾人が苦難の記憶を読みかえれ、強く立つ糧になれることを願っている。

しかし、なぜ台湾人が今更中国人の迫害に反発しなければならないのでしょか。なぜ多数の台湾人が、インドネシア、ベトナムのように、少数の中国人を震わせるように逼迫しなかったのでしょう。否、しようと思った毛頭もなかったに違いない。これは中国人の奸智によるのか、台湾人の徳によるのか、台湾人の愚によるのか、今も自問せざるを得ない。不思議な珍現象と自嘲してはすまない。民族的な恥としか言いようがないのだ。


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