ルマガ「遥かなり台湾」より転載
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毎年11月25日は台中にある宝覚寺で台湾籍日本軍人軍属戦没者慰霊祭が挙行されています。
この慰霊祭に平成11年から毎年欠かさず日本の福岡から日華(台)親善友好慰霊訪問団
(小菅亥三郎団長)が参列しています。今年で12回目となる訪問団は「台湾同胞の英霊3万3千
余柱の顕彰するために、台湾各地の日本人慰霊碑やその関連施設を訪れ、これまで現地関係者と
の親密な交流を深めてきた」のです。
台湾籍日本兵の高齢化に伴い、毎年参加できる人たちが少なくなっている現況において訪問団
の参列は大きな存在となっているのです。
過日、図書館で台湾籍日本兵に関する本を探していたら、偶然にも『台湾光華雑誌2005年9月号』
に「消えゆく歌声」というタイトルの下記のような文章を目にしました。
◆◆消えゆく歌声〜台湾籍日本兵のラバウル小唄◆◆
ラバウルは、パプアニューギニアのニューブリテン島にある。第二次世界大戦で重要な軍事基地
だったこの地は、連合軍との戦いで多くの日本兵が命を落としたことで知られる。
が、彼らの中に日本の軍服を来た「台湾人」が多く混じっていたことを、あなたはご存知だろうか。
「今でも自分が戦地にいる夢を見て、台湾に帰ったはずなのに、なぜまだここにいるのかと自問し
ていることがあります」と言うのは83歳の台湾籍元日本兵である劉英輝さんだ。劉さんにとって
60年前のあの戦争は過ぎ去ったことではない。
●埔里の40人
1943年(昭和18年)4月25日、「台湾第三回特設勤労団」として埔里出身の19〜20歳の若者40名は、
高雄港から輸送艦で出発した。マニラ、パラオを経て一ヵ月後にラバウルに到着、7129部隊の103兵
站病院に配属された。出発前、神社に参拝をすませて出征する彼らを、沿道では埔里酒造所の従業員
や学生たちが日の丸を振りながら見送った。
だが劉英輝さんの妻は見送りに行かず、四ヶ月になる長男を抱きかかえて家の中で懸命に働いていた。
「そうするしかなかったのです。手を休めると涙が出てきましたから」と、84歳の夫人の脳裏に当時の
記憶が鮮明によみがえる。
40人の中には、日本人警官に半ば強制的に徴集された人もいたし、軍の俸給を得るために加わった人も
いた。劉英輝さんの場合は「愛国心」のために仕事を捨て、家族の反対も顧みずに出征した。
「あの時代、戦争に行くことは栄誉でした。お国のために、勝つためにと、そればかりを念じていま
した」と、劉さんは背筋を伸ばしたいつもの姿勢で語る。
「軍服に着替えれば戦士です。殺すのでなければ殺される。そう考えていました」
●指一本の遺骨
ラバウルの野戦病院での仕事は死傷者を担いだり、防空壕を掘ったり、さらには畑で野菜を育てたりも
する、まさに「特設勤労」だった。
10万の精鋭部隊をラバウルに投入した日本軍だったが、連合軍の集中砲火に多くの死傷者が出た。
「沖を見ると米軍の戦艦、航空母艦などが、まるで運動会で生徒が手をつないで並んでいるように連なり、
空からは虫が卵を産むように無数の爆弾が降ってきました」と劉英輝さんは、戦友の潘友元さんといっ
しょに当時を振り返る。
戦争末期は爆撃が激化、遺体を埋める仕事も忙しさを増した。
「大きな穴一つに50人埋めるのですが、人数がそろうまでは椰子の枝や葉で穴を覆っておきました」
「私たち台湾少年は本当に気丈なものでした。戦死者の手を切り落とすこともしたのですから」と
劉さんは説明する。遺体を荼毘に付す油や木材も欠乏したため、手だけを切り取って火葬にし、遺骨と
して祖国へ送ったのである。「それも最期には指1本に限られてしまいました」という。
1000体以上を荼毘に付したという辜文品さんは、今でも火葬場の近くで臭いを嗅ぐだけで体のどの部分が
燃えているのかわかる。「最も燃えにくいのは心臓で、ガソリンを足す必要がありました」という。
1945年8月15日、連合軍の捕虜として収容所にいた台湾籍日本兵たちも玉音放送を聞いた。「なぜ負けた
のかと涙を必死にこらえました」と劉さんは言う。
計30回組織された台湾特設勤労団では、死者が半数に及んだ回もあったが、幸いに劉さんたち40人は
全員が無事だった。台湾へ戻る船上、南十字星を眺めながら、心は船よりも早く故郷に馳せていた。
●別世界
故郷に戻ってみると、日の丸に替わって青天白日旗が翻っていた。日本語で教育を受けた台湾日本兵
たちは、新たな「国語」ができないため、元の職場に復帰できないことが多かった。酒造所で働いて
いた劉さんも家で畑仕事をするしかなかった。
潘友元さんの場合はさらに悲惨だった。命からがら故郷に戻るや二二八事件が勃発、それに続く全国
的な粛清で投獄されたのである。
「『爪の手入れだ』と言われては爪の下に針を刺され、『飛行機に乗せる』と言われては逆手に縛ら
れて天井から吊るされました」と、拷問の様子を語る。
先住民平埔族の血を引く潘さんはその大きな目を見開いて「あの時、一回死んだようなものです」と
つぶやく。
「違法に銃弾を保持していた」という当時の判決は未だに無実が晴らされず、名誉回復もなく、
潘さんは人生の半分以上をくず拾いでしのいできた。
●鬱積する思い
「悔しいです。戦場での命からがらの経験に耳を傾けてもらえないどころか、国民政府とともに来た
外省人からは『おまえら日本兵なんか』と罵られました」と劉さんはため息をつく。
国民政府の教育を受けた子供たちも日本は悪いと言い、敵のために戦ったと父を批判した。
賠償問題では日本への怒りもある。劉さんは「天皇のために戦ったのは同じなのに、日本人には当時
の7000倍の額、台湾人には120倍しか賠償してくれません」と訴える。日本政府の仕打ちは、かつて
日本の皇民であったという彼らの誇りを引き裂いた。
多くの台湾籍日本兵は慰問金の受け取りを拒否している。「それぐらいで借りを返したと思って欲しく
ない」からだ。
結局、日本からは「もう日本人ではないから日本が世話する必要はない」とされ、国民政府からは
「敵のために出征した」と言われ、どちらからも顧みられず、彼らは時代に取り残された。
今年、台湾団結連盟主席の蘇進強氏が日本の靖国神社に参拝したことについて、劉さんは「この60年で
初めて、台湾の政治家が具体的な行動で台湾籍日本兵を肯定してくれた立派な行為だ」と感じている。
おそらく何度も自問したことがあるであろう、「日本人のために出征したことを後悔していませんか」
という問いに劉さんはしばらく考え、慎重にこう答えた。
「私たちは日本時代に生まれ、日本の教育を受けました。日本人との間に差はあったとはいえ『台湾人』
とは呼ばれず、彼らを『日本人』と呼ぶこともなく、本島人や内地人と呼び合いました。支那事変
(盧溝橋事件)が勃発し、当時の我々にとっての国家が中国と戦争をしたので、絶対負けてはならぬと
お国のために戦ったのです」
「あの時代に我々が自分のより所と見なしたもの、それが『日本精神』です。今なら『台湾魂』と言って
もいいでしょう。現代人のように『自分はなに人か』と悩むこともありません。
国民政府とともに来た兵士たちは、かつては『反共、反共』と言っていたのに今では『大陸と和平を』
などと、言うことがころころ変わります」と、彼らは時代とともに軽々と転向することなど思いもかけ
ないようである。
今年の夏、劉さんは孫を連れて日本へ行き、戦友に会い、愛知万博を見てくる予定だ。
「日本の技術や礼儀正しさを孫に見せるつもりです。裕福になった台湾も礼儀を知らなくてはいけま
せん」日本を見せると言うよりは、かつて日本兵であった汚名をそそぎたいのかもしれない。
長年の沈黙の後、彼らは台湾籍日本兵が「悪者」ではないことを証明したいと思っている。
●最後の誕生祝い
戦後35年を経て戒厳令が解除され、民間で団体を組織することもタブーではなくなった時、埔里40名の
元特設勤労団員は誕生会という名目で定期的に集まるようになった。年々人数が減り、現在「動ける」
人はたった8人、ほかに中風の人が2人となってしまった。
そんな現状を見て、交流を続けてきた日本の「第十野戦気象隊隊友会」が、生活に困っている元日本兵
に贈ってほしいと、最後の会費日本円15万を劉さんに託した。日本政府は責任を果たしたとは言えないが、
戦友の情は厚い。
だが、このような戦友会も姿を消しつつある。来年、劉さんは集まりの規模を大きくし、すでに亡くなった
戦友の家族も招いて最後の会を行う予定だ。
会では例年のように、当時南洋で大流行した「ラバウル小唄」を最初に斉唱する。
「さらばラバウルよ、又来るまでは。しばし別れの涙がにじむ。恋し懐かし、あの島見れば、椰子の葉かげに十字星」