【傳田晴久の台湾通信】台湾の長榮高校甲子園遠征

【傳田晴久の台湾通信】台湾の長榮高校甲子園遠征

1. はじめに
「日本統治時代の嘉義農林学校野球チームが勇躍甲子園に乗り込んだ熱血物語は誰もが耳にしたことがあり、魏徳生監督のプロデュースした『KANO』がこの歴史を再現していますが、台湾人が甲子園にサッカー遠征したことをご存知ですか?」という書き出しで、2019年8月11日の自由時報紙の「文化週報」は、台湾のサッカーチームがかつて甲子園に遠征したことを伝えています。
10月の日本スポーツ界の話題はラグビー一色だったと聞いておりますが、今回の台湾通信は台湾のサッカーの話題です。

2. 新聞記事の紹介
実は、私が最初に目にした記事は、8月17日の記事で、タイトルは「文化週報がとりもつ、長榮子弟甲子園を談笑」というものでした。
長榮高校サッカーチームの「甲子園遠征」という記事(2019.8.11)を読んだ許俊傑さん(68歳)は、遠征チームのキャプテン許樹林さんの息子で、父親のチームメイトの郭榮彬さん(98歳)を探し求め、訪問することができたというものです。
許俊傑さんは花蓮から台北に向かい、郭榮彬さんに会ったとき、感激して思わず涙したといいます。

3. 長榮高校とは?
私が現在住んでいるアパートから徒歩10分ほどのところに「臺南市私立長榮高級中學」があります。現在、台湾の「高級中学」すなわち「高中」は日本の高等学校、「国中」は中等学校に相当します。在来線の台南駅から新幹線(高鐵)の台南駅には沙崙線に乗りますが、その途中に「長榮大学」があります。
長榮高中の歴史を見ますと、この学校は1885年(清朝の光緒11年)、英国長老派教会によって台湾で最初の中学校として設立されました。日本が清朝から台湾を割譲されたのが1895年ですから、この学校はその10年前に設立され、当時の名称は「長老教中學」でしたが1939年6月21日に「長榮中學校」となりました。設立当初は男子のみでしたが、1971年以降は女子も入れるようになり、現在学校には5000人余りの学生がいるそうです。その後、1992年に長榮大学を設立、1994年から2009年にかけて数校の幼稚園を設立したとのことです。
この台湾通信を書くに当り、長榮高校を覗いてきましたが、大変美しい、素晴らしい校舎が立ち並び、400メートルトラックに囲まれた天然芝のよく整備されたサッカー・ラグビーグランドを有する大きな学校でした。

4. 息子の許俊傑さんが読んだ記事には
許俊傑さんが読んだ文化週報の「甲子園遠征」記事は、「聚珍臺灣」創立者である王子碩さんが書いたものですが、王子碩さんは歴史研究家でもあり、デジタル技術をもって古い白黒の写真をカラー写真に復元することを商売にしておられ、長榮高中が全国優勝した時の写真を復元されました。その記事の内容は・・・・・
「研究の途上、ある古い写真をカラー化し、公けにしたところ、反応があった。その写真は1940年長榮中學が台湾全島の選手権大会で優勝した際のもので、チームメイトの家族がその写真に注目し、写真の出所や他のプレーヤの居場所を知りたいと思っていることが判明しました。信じられないほどの機会が訪れたので、著者はすぐにその老紳士とともに写真の所有者を訪問することにし、最終的にこのインタビューが成立しました。
写真の所有者、郭榮彬氏は今年98歳の高齢ですが、彼は矍鑠(かくしゃく)としており、階段を自由に上り下りでき、60〜70歳に見え、とても98歳の老人とは見えませんでした。応接間には多くのサッカーの記念品があり、テレビは丁度サッカーを放送しています。テーブルの上にはフットボールマガジンがあり、この長老が100%熱血のサッカー選手であるということを示しています。
当時の長榮中學校長の萬榮華先生(Edward
Band)はイギリスのケンブリッジでサッカーのキャプテンを務めたことがあり、台湾に来るとき台湾初のサッカーボールを持ち込み、生徒にサッカーを教えました。
郭榮彬氏によると、萬榮華先生の選手へのトレーニングは非常にきめ細かであることが分かります。基本的な動きから太ももや脛の使い方、チーム全体のコンセプトにまで及びます。彼は正に本物の「台湾サッカーの父」ということができます。
「長榮中學百年史」によると、卒業生である洪南海は次のように述べています。長老派中学校は台南の大東門の外にあり、学生寮も近くにあります。校長が率先してサッカーをしているので、生徒は自然にそこでサッカーを始めました。ある時は城門をサッカーのゴールポストに使用したといいます。
郭榮彬さんはしかし「城門をゴールポストに使用した」という記憶はないが、寮についての印章は深く、サッカー部員は毎日トレーニング、トレーニング、トレーニングの連続だったといいます。
郭榮彬さんは「両刀使い」の能力を誇っており、左足は遠くへ、右足は正確にキックできました。かつて日本に留学し、全国チャンピオンチームの同僚となる劉朝本は、母校に戻って当時の最も高度なサッカースキルを伝え、毎日「九宮格」(3×3の枡目を描いたボード)にシュートするような練習を、少なくとも70本正確に蹴る練習をしていました。
1940年の全島中等学校サッカー大會の決勝戰では、8対1で台北一中を圧倒し、日本での試合の代表権を獲得しました。

5. 遠征の様子
長榮中學は私立学校で、海外旅行に必要な資金は自己負担です。チームは最初に台南から台北まで列車に乗り、基隆港に到着してから日本行の船に乗りました。ほとんどのプレーヤは船に乗った事はなく、大阪に着いた時にはみんな船酔いで、善いコンディションでの出場とはなりませんでした。対戦相手はかつて全国大会で優勝したチーム滋賀師範であり、この学校は学制の違いにより、学生は1〜2歳年上です。また、日本で使用されているサッカーボールの素材は台湾で使用されているものとは大きく異なり、甲子園南球場は芝のグランドであり、ボールコントロールの感覚は以前のトレーニングとは明らかに異なりました。
長榮中學のプレーヤは前半戦、環境条件に慣れるのに苦労します。混戦の中、キャプテンの許樹林が不覚にも触れたボールが自陣に入り、オウンゴール。許樹林は左のフォワードでしたがチームメイトと協力しながら攻め入りました。後半戦の佳境に入った時、長榮中學のチームメイトの絶妙なシュートが決まり、得点。この歴史的なゴールを誰が決めたのか?
郭榮彬の記憶は定かではなく、左後翼の郭雄介が蹴って入れたようです。長榮中學は最終的に2対1で負けましたが、それは台湾サッカーの歴史の節目でした。
郭榮彬はいささか言いよどみながら、ボールと会場に早く適応するために大阪に早めに到着できたら、このゲームに勝てたかもしれないと思う、と語っています。台湾人は常に逆境に直面して勇敢であり、彼らは自分の道を歩き続けます!」
記事は最後に、「試合後、サッカーチームは甲子園野球場を訪れ、壁に嘉義農林の選手が残した本塁打の跡を目撃しました。また、台湾に戻る船は台風に遭遇し、選手たちは大波にもみくちゃにされました。この生き生きとした物語を聞いた著者の心は、感動と期待に満ちています。私はこれらの台湾人の記憶が永遠に受け継がれることを望みます。」と結ばれています。

6. おわりに
高校時代に運動部で同じ釜の飯を食った仲間はいくつになっても懐かしいものです。私もささやかな体験がありますので、今回のお爺さん達の邂逅、不思議なご縁は素晴らしいものと感じます。もしこの場に許俊傑さんのお父さん、許樹林さんが居られたらどんな会話が展開したであろうか、このお爺さん達は恐らく瞬時に10代の若者に戻って、あの話、この話に花を咲かせたことでしょう。
今回の台湾通信を書くためにネット上のいろいろな資料を漁りました。私は1940年生まれですが、今からウン10年前の、当時のサッカー事情の一部を覗くことができました。この話は、また別の機会にお伝えできたらと思います。


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