「中国ガン・台湾人医師の処方箋」より(林 建良著、並木書房出版)
●「あっ! 共匪だ」
私が日本に来たのは、昭和の終わりに近い昭和六十二(一九八七)年四月で、二十八歳のときだった。そのとき初めて「共匪」を見た。「共匪」とは蒋介石政権が作った言葉で「中国共産党の匪賊」のことだ。
物心ついたときから大学を卒業するまでの二十数年間、学校で中国共産党員を「万悪的共匪」(極悪な共産党匪賊)と叩き込まれた。しかし、台湾では「共匪」を見たことも会ったこともなかった。だから、東大の留学生センターで本物の「共匪」を見た瞬間、「あっ!共匪だ」と感電したように立ちすくんだ。
好奇心に負けた私が恐る恐るその「共匪」に声をかけてみると、笑顔で「ニーハウ」(こんにちは)と返ってきた。
当時の中国人留学生は本当に「共匪」と言えたかもしれない。改革開放前の中国人留学生はほんの一握りの特権階級と言える。彼らは共産党の幹部か大学の教員がほとんどだったからだ。
四十代中心の彼らは文化大革命も経験し、日本で勉学できるありがたさを存分に理解しているようだった。共産党の幹部といえども、まだ貧しかった中国からきた彼らの生活ぶりは素質そのものだった。台湾の留学生より年長だったからか、どちらかと言えば落ち着いた雰囲気で、台湾人留学生よりも大人であった。
台湾の年輩の外省人(戦後、蒋介石と一緒に台湾に渡ってきた中国人)と同じように、聞き取りにくい「中国訛りの中国語」をしゃべっているのも新鮮だった。中国訛りの中国語とはおかしな表現に聞こえるかもしれないが、台湾では巻き舌で中国語を話すのは年配の外省人だけで、もともとの台湾人ではないことはすぐわかる。
特に親しくなった中国人留学生は二人いて、一人は東大第三内科に留学にきた蘭州大学血液学の助教授の卯さんと、もう一人は工学部で研究していた武漢大学助教授の朱さんだった。中国の社会状況や政治に興味津々の私がそのことを訊くと、彼らはいつもさりげなく話題を変え、共産党などの言葉も避けていた。一方、日本での生活の話題になると、人が変わったかのように饒舌になり、いろいろな意見を述べてくれた。
貧しいながらもプライドを持ち、堅実に学問を探求している彼らから、苦労がいかに人を磨いて強くするかを学んだ。その彼らは、先進国家日本に対して、批判しながらもいくらかの敬意を払っていた。
●本物の中国人
九〇年代に入ると、中国人留学生の構成が一変した。共産党幹部の子供たちで、同じ特権階級ということに変わりはないが、我々と同年代ぐらいの三十代前半の留学生に入れ替わった。
彼らは「共匪」ではなく、ごく普通の中国の若者であった。八〇年代と比べて人数もかなり増え、図書館、生協、学生食堂など、キャンパスの至る所で群れを成して大声で談笑する中国人留学生を目にしない日はなかった。彼らは本物の中国人なのだ。
おとなしい台湾人留学生に比べ、新世代の中国人留学生の多くは、意気揚々としていて自信にあふれているように見えた。台湾人留学生と特に違うのは、彼らの強烈な反日感情だった。日本にお世話になっている意識はまるでなく、宿敵の本陣に乗り込んでやったという敵愾心さえ持っていた。
食堂で飛び交っていた彼らの会話には「小日本」や「鬼子」など、日本を蔑視する用語もよく耳にしていた。そんなに日本が嫌いなら、なぜ日本に来るのかといつも不思議に思っていた。運悪く彼らの近くのテーブルで食事をしたときなどは、その言葉を浴びすぎたせいか、いつも消化不良になりそうだった。
●戦場さながらの留学生招待パーティ
当時の東大では年に一回、目白の椿山荘で、総長主催による留学生招待のパーティが開かれた。明治の元勲、山県有朋の屋敷だったこの椿山荘は東大と同じ文京区内にあり、神田川に面している広い庭園がきれいなところだ。
台湾人留学生たちと一緒に入場前に列を作って並んでいると、台湾語でしゃべっている我々は、例外なく中国人留学生たちから声をかけられる。「オイ、台湾から来たのか」「そうだよ、あんたは中国から来たのか」と返すと、バトルが始まる。「なぁに? 台湾も中国じゃないか」「いや、台湾は台湾で、中国は中国だ」から始まり、いつもそれからエスカレートし、乱闘になりそうな時もあった。
しかし、会場に入った瞬間、そのバトルがパタリと止む。中国人留学生たちの関心がテーブルの上に並ぶご馳走に変わったのだ。
それからは難民キャンプさながらの光景だった。総長の挨拶を聞く間もなく、乾杯の前から料理の争奪戦が始まる。われ先にと、肘で人を押しのけて強引に前に出て、料理を山のように皿に乗せた中国人たちがテーブルを占拠してしまう。その後、立食パーティが戦場に化ける。中国人たちは、床に平気でゴミを捨てる。綺麗な会場が一瞬にしてゴミ場となった。どんな美味しい料理を出されても、どんな立派な会場でも、台無しとなるのだ。狼藉とはこうことだとよくわかった。
私は数回参加したが、中国人留学生たちとの宴会とはこういうものだと分ってからは、行くのを止めた。