(2013年中秋 by Andrew Chang 張介州、米国アリゾナ州在住)
●先代の真摯なアドバイスに耳を傾くべし:
国威高揚の名で軍部が主導した侵略戦争まで逸脱暴走した軍国主義日本は戦敗国として受けた懲罰は国際法に則るものの、原爆による傷害は(のみならず二度も)言語を絶する人類史上未曾有の悲劇であり、それで虚脱状態になった戦敗国の日本が押しつけられた平和憲法も行き過ぎたものであり、その結果、上述の戦後イデオロギーに取って替えられ、そのあげくに“自国の文化価値を知らない”日本人も多くなり、自己本位と物欲追求で魂まで失しないかねない社会となり嘆かわしいことです。
この様な凋落を避け“戦前にあったものは何もか悪いとする「戦後イデオロギー」から脱却すべき”、“国家は文化と教育にもっともっと気を遣う必要がある”、“日本人の中に眠っている強い精神力を蘇らるべき”など“教育を通して「病んだ国」から立ち戻るべき”など。そして“教育から‘人間如何に生きるべきか’の大事な人間学を教える”などと、国を思う上述の博雅の士の心からのアドバイズに耳を傾くべきです。
その方達は昭和から遡って大正年間に生まれた方もおられ、人生経験が豊富で碩学、国の盛衰をじかと自分の目で見、忌まわしい戦争にまつわる艱難辛苦を身でもって嘗め尽くし、生の意義と真価を悟り磨かれてきた方々、その憂国・愛国の思いは身に沁みるもの、若き世代の幸福を願う真摯で肺腑を突く至言であり、まさに柳田邦男氏のおっしゃる“人生まるごと語り伝えよ”でありあります。
そして彼等の共通する念願は“あの悲惨な戦争を繰り返さないこと”であり、国家復建のため資源を生かし、小さい国として生きる道をさがす事で“日本を世界の経済と文明の主要プレーヤにとどまる気概を失うべきではない”などの多くのアドバイズがあり、一々枚挙する紙面がありません。がその中で特に忘れられない至言というべき事を二、三:
「律儀な職人国家への道」で日本は「技術的(商人)国家」であり、“徳というものが国家を支える、、、”と作家の曾野綾子女史が指摘、そして“、、、日本人は間違いなく律儀な精神を宿し、、、その特性で食べているいる、、、”と、そして“律儀さと正直さと勤勉さに現れるささやかな徳の力を日本が持っていてよかった。”なぜなら“職人国家になるには、長い年月下積みの生活に耐え、技術を学び、何よりもいいもの造りをするということを最終の目標に置く、、、。出世や収入の多さよりも、、、(賛辞さえなくとも)自分だけが自分の作品の批評家になって納得するような仕事をするために生きる人間にならなければならない。”と。
女史は更に世界第二位の経済大国となった中国の、自国民のみならず、世界人類の健康を脅かす近年来の不徳な有毒製品について“中国の政治家も国民も儲けのためなら、平気であくどいことをやる国だ”と指摘、そして“最近の中国に対する諸外国の反応を見ていると、中国に欠けていたのは、長い年月の徳の力で、それによって中国は大きな経済的、政治的損失をしているのだという気がする”と、まさに正鵠を射た見解であります。
●筆者の見る日・中・米の文化の相違と比較:
斯く言う筆者は日本、そしてその文化・伝統を盲目的に崇拝する者ではありません。なぜなら一生3カ国もの国籍を変え、変えられた者で、日・中・米三カ国の文化・社会・価値観を直に自分の目で見、身をもって体験し、懐古の念で明け暮れる頭の固い老年者によくある一人よがりの面もあることは否めませんが、良し悪を見る目も肥えたものと、ご参考して頂ければ生き甲斐となります。
それは戦前の日本植民地の教育を受け、60年代の初頭に心の引き裂かれる思いで、内戦で敗れた流亡政権に踏みにじられた生まれの故郷台湾を離れて渡米、その途方もない大きさと資源の豊かさに目を見張りました。それに民族、文化の一致した台湾や日本と違って多民族・文化の社会での生活に異文化に適応する面白さと戸惑いを体験してきました。
丁度ベトナム戦争の泥沼にはまった反戦運動と民権運動のたけなわで頻繁なデモ、スト、、、を目撃、アメリカの自由、民主、人権、それに平等を貴ぶ国と深く印象ずけられました。そしてアメリカ人は粗野傲慢な人もたまには見られますが、一般的に言って「ウチ」と「ソト」の壁はなく、明朗、親切、友好的で近づきやすく、戦時中に教えられた「鬼畜」とは縁が遠いものと、思想教育はいびつなものだとつくづく考えさせられました。
しかしその反面、物資・食物の浪費、大都市のスラム、犯罪率の高さ、忌わし訴訟大国など思わしくない面もかなりあります。特に最近の社会風潮の急激な変化、銃の氾濫とワイルドウエストを思わせる頻繁に起こるおぞましい銃による暴行、また近年来行き過ぎた個人の権利主張、気品のない風潮や流行などに違和感を感じ、行き過ぎたリベラル教育と学力の低下、価値観の変化と揺らぎにさみしく思います。
とはいえ米国と日本は現代の中国に比べると雲泥の相違であります。なぜな米国は今でもジュデオ・クリスチャンの伝統と道徳観が社会文化の主流であり、一方伝統的日本は自然と神を尊ぶ文化があり、「和」の伝統が今でも根強く、「もののあわれ」の感性を育んだ繊細な美的意識に込められた審美感覚、弱き者を助け愛しむ慈悲心と義侠心、そしてはかない人生を強く美しく生きる人生観と価値観が強みであり、それは今でも延々と続いているとはずです。
他方現在の中国は無産階級革命でユートピア社会の理想を掲げたものの、その建国の過程で、伝統文化を徹底的に一掃する「反孔」の文化革命のスローガンで、清算、粛清、大躍進などの激烈な手段で、眉ひとすじ動かずに数千万の人民を死なし、その酷さは言語を絶するものです。その結果国民を飢餓と瀕死の状態に陥れ、その後「中国特色の市場経済」に基く社会主義国家の名を掲げ、建設と経済発展のために、人命は勿論、環境汚染はグローバルのスケールで本国人のみならず近隣諸国まで脅かし、貧富の差はひどく、特権階級は権力に頼り汚職で富を積み重ね外国に隠匿、人民の不満は憤発寸前、それを和らげるために最近「尊孔」の運動に戻り、失われた社会道徳観を取り戻すとし、又国民の不満をなだめるため、矛先を外に向けているのは周知の通りです。その様な無神観で道徳観を失った新興帝国は国際社会にどのような影響を与えるかは新世紀の課題となっています。
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html