【現地レポート】大楠公と台湾の学校

【現地レポート】大楠公と台湾の学校
【現地レポート】大楠公と台湾の学校   
       

     メルマガ「遥かなり台湾」より転載

                    台日会世話人 KISOU3
          
      
                           
大楠公とは楠木正成のことですが、「大楠公と台湾の学校」という今日のタイト
ルを見て「あれ?
この二つは何にも関係ないじゃないか」と思った人もいるかもしれません。でも
台湾で戦前日本語
教育をうけた年配の人たちには大楠公の故事や歌のこともよく知られているので
す。
それは戦前の修身教科書によく登場して、小学三年生の唱歌でも歌われていたそ
うです。

ここ台中市の南に彰化市という所があります。この彰化市で最も歴史のある学校
と言えば、現在の
中山国小です。ふとしたきっかけでこの小学校の先生と知り合い、先生を訪ねて
学校を何度か訪問
しました。その時に学校の歴史を知る資料展示室(校史室)を案内してもらいま
した。学校創立か
らすでに百年の歳月が過ぎ去り日本統治時代の学校の様子などの写真もあり、興
味深く見せてもら
いました。

学校の歴史は1897年に彰化孔子廟内に国語伝習所が設置されたことから始まりま
す。というのは、
のちに彰化公学校となり、この年を学校創立の年に定めているのです。終戦後は
現在の学校所在地が
中山路にあることから中山国小となったのです。ビックリしたことにこの学校に
は校内には戦前神社
もあり、また楠木正成の銅像もあったのです。1937年(昭和12)に日中戦争が始
まると、台湾では皇
民化政策が推進され、日本語の常用、日本式の生活習慣の養成、神社への祭祀な
どを奨励、台湾人に
も日本人としての愛国心や天皇に対する忠誠心を植え付けるようとしました。

そして1940年(昭和15)が皇紀2600年の佳節にあたることから、前の年(1939)
に楠木正成の銅像が
校内神社の前に安置されたのです。そして翌41年に当時の第10代目の中袴田校長
の時にそれまでの彰
化第一公学校が「楠公学校」と改名されたのです。当時は日本人も台湾人も同じ
く「天皇の子」だと
言われた時期。きっと天皇に忠誠を尽くす日本人になってほしいという願いをこ
めたのでしょうか。
この時の全校に39クラスがあり児童数は2500余名、教職員は42名いたそうです。
そして当時の校長先
生が書かれた「よい日本人 明朗、公正、剛健」が学校の校訓として残されてあ
りました。

唱歌にある大楠公の歌を歌える人やメロデイを知っている人はごく少ないかもし
れません。冒頭が
かの有名な「青葉茂れる桜井の」で始まる歌で、大楠公が1336年(延元元年・建
武三年)、朝敵・
足利尊氏の上洛を防ぐために、湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と、長子の正行
(まさつら)の、
父子の別れを歌った歌です。
 敗北が必至の湊川の戦いに臨む正成は、桜井の地でわが子・正行を呼び、故郷
に引き返すように
告げるが、正行も父とともに死ぬ覚悟であり、帰ろうとはしませんでした。しか
し、正成は、二人が
討ち死にするならば、尊氏の天下となってしまうことを訴え、生きて、早く立派
に成長し、国のため
に仕えよと諭して、故郷に帰すのです。

この物語を知っている年配の人は「学芸会で演じたことがあるよ。」と語ってい
ました。

 青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ
 木の下陰に駒とめて
 世の行く末をつくづくと
 忍ぶ鎧の袖の上に
 散るは涙かはた露か

 正成涙を打ち払い
 我子正行呼び寄せて
 父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん
 いましはここ迄来れども
 とくとく帰れ故郷へ

 父上いかにのたもうも
 見捨てまつりてわれ一人
 いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは
 未だ若けれ諸共に
 御供仕えん死出の旅

 いましをここより帰さんは
 わが私の為ならず
 己れ討死為さんには
 世は尊氏の儘ならん
 早く生い立ち大君に
 仕えまつれよ国の為
 仕えまつれよ国の為

戦前の教育では楠木正成は忠君愛国の象徴であり、楠木正行は忠孝両道を全うし
た偉人として修身の教科書
でも称賛されていました。そして、その大楠公と言えば「七生報国」の言葉が有
名ですよね。
どんな内容かといえば、後醍醐天皇の建武の親政が失敗し、最後は湊川の戦いで
、遂に正成は湊川の合戦に
赴き、足利尊氏の大軍を正面から迎え討たなければならなくなってしまいます。
巨万の大軍に対し正成は
わずか700騎。善戦およばず正成は敗れ自害を決意します。
この時、正成は弟の正季に「何か言い残すことはないか」と尋ねました。
    正季は「七たび生まれて、朝敵を討ち滅ぼしたいものです」と答えまし
た。
    正成は「実は私も同じだ」と言い、高らかに笑いながら兄弟刺し違え壮
絶な最期を遂げたのです。

これがのちの「七生報国」です

校名に大楠公の名を冠した当時の日本、台湾が見えてくるのはぼく一人だけでし
ょか。

注:校内にある神社の写真など彰化公学校に関してブログ「台湾風物情」に紹介
しましたので、
ご覧になってください。
http://blogs.yahoo.co.jp/taichu_jp/60087999.html

ブログの更新情報
「台湾風物詩」  彰化公学校
         北白川宮能久親王
「台湾見聞録」  旧山線の紹介

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