【日本語訳】日本の台湾統治を伝える約100年前の

【日本語訳】日本の台湾統治を伝える約100年前の”THE TIMES”記事

2017年6月1日作成

文責:萩野谷敏明

【説明】

これは、約100年ほど前に英国の 『THE TIMES』 が “日本の台湾統治”を批評した報道記事です。この記事は米国の 『The New York Times』 にも転載されて全世界に報道された新聞記事です。

記事主題:『SAVAGE ISLAND OF FORMOSA TRANSFORMED BY JAPANESE』 −Wonders Worked in a Few Years With a People That Others Had Failed to Subdue −A Lesson for Other Colonizing Nations (published on September 25th,1904 The New York Times)

【訳文】

『日本統治で一変した未開の島、台湾』 −誰の手にも負えなかった事を、数年間で克服した驚異の偉業 他の植民地宗主国への教訓
(ロンドン、1904年9月24日発『The Times』)

本日、日本による台湾の変革を伝える特派員の記事を掲載する。
何事によらず、成功するには三つの条件が必要だ。即ち、そこに住む人々の能力、綿密な施策、それに経験である。
植民地経営とて例外ではない。ドイツはその綿密な施策にも拘らず、現地住民の能力欠如か、あるいは自身の経験不足のいずれかの理由で植民地経営に失敗した。何事も初体験の事は、得てしてうまくいかないものだ。 ドイツの失敗の原因はおそらくこれと同じだろう。
それゆえ、日本が台湾の統治に当たって優先的に採った施策は注目に値する。とりわけ、日本にとって最初の植民地である台湾の地は、どの植民地宗主国にとっても手に負えないと思われてきた難しい問題を抱えていたからだ。(注�)
台湾はもともと支那本土および諸外国から逃れた無法者にとって格好の巣窟だった。また、現地人の中には野蛮な無法者が大勢いたため、数度に亘って外国に征服された地域でも、その国の植民地として支配されることはなかった。
スペインとオランダは、台湾を植民地化しようと企てたことがあるが、「危うきに近寄らず」とそれを断念した。支那(清朝)は、事実上その地を荒れ果てたままにしていた。フランスとイギリスは、容易に台湾を手に入れることができたかも知れないが、未開の蛮地に深入りするのを避けた。

未開の原住民の啓蒙

1894-1895 の日清戦争の後、日本が台湾を要求したのに対し、支那(清朝)は不本意にせよ喜んでこれを受け入れた。其の時、李鴻章(Li Hung-Chang)は皮肉を込めて「日本は極めてまずい取引をしたことに気付くだろう。」と嘯いている。
日本が台湾に進出した時は、沿岸部には海賊が蟠踞していた。内陸では、野蛮な原住民が支配する地域と、無法者と盗賊の組織が跳梁する地域が入り交じっていた。彼らは、海岸に漂着した難破船を略奪したり、島に近よる船員を殺害したりしていた。台湾が支那(清朝)領だった頃は、外国船の船員に対する流血事件が頻発し、アメリカ初め他国との紛争が絶えなかったから、支那(清朝)は無法の島を割譲して内心喜んだと思われる。
日本が島全域を完全掌握するのに約1年かかった。1896年3月31日、島は文民統制の行政府が管轄することになった。しかし、それまで、島を管轄する職にあった支那(清朝)の行政官は、それまでの地位を追われることを恐れて台湾の無法勢力と結託し、新しい統治者に対する叛乱を扇動し始めた。このため、島は絶えず不安定な混乱状態にあったが、1901年末になって漸く叛乱分子を掃討することができた。

寛大な行政

台湾は、日本の統治下の数年間で完全な平和を享受した。そのわずかな時間の間に、台湾の国の姿と以前の野蛮な住民の心は顕著に変わり、人々は日本の統治を祝福し賞賛し始めるようになったのである。
この目覚しい成功は何によるのか。それは、日本が可能な限り住民の考えを尊重しつつ文明開化への道に温和に導き、あえてこれを強要しなかった施策にある。
例えば、台湾に古くからある自警組織を存続させた。(注�) この組織を通して武装した盗賊の襲撃や火事、洪水その他の自然災害から住民を守る一方、日本の秀れた法律、制度を台湾に導入した。こうした法制度は台湾在住の日本人には厳格に順守させたが、現地人にはその適用を緩和していた。当時の現地人はまだ文明国とはどういうものかを知らなかったし、文明社会を築くためには法治国家への転換が必須だということを理解していなかったからだ。

阿片吸引癖の矯正

台湾人の阿片吸引者に処罰はなかった。しかし、阿片の吸引と取引は、日本のみならず台湾に住む日本人にとっては犯罪で、色々な刑罰や懲役の対象になっていた。日本は、阿片消費量の漸減と中毒者の阿片離れの促進を計って、阿片を「専売制度」とする一方、飲酒依存者が徐々に飲酒を止める方法と同様の、考えられる様々な方策を講じた。
これによって、政府の許可無く入手できなくなった上に、入手した阿片は極めて厳しい監視下に置かれた。日本政府は阿片患者と認定された者に限り、ライセンスを与えられた正規の販売庖で購入できるよう阿片の供給を制限し、吸引者の輸が拡がらない様に警察に厳しい監視態勢をとらせた。
これと平行して、モラル面での教育も強めていった。成人には、全ての医師に阿片吸引の害を説明させた。子供の教育としては、学校の教師に、阿片がいかに身体や道徳的に有害かを教え込むよう義務付けた。
台湾の人口は当時およそ3,000,000人だが、その中で1900年9月には阿片の常習者が169,064 人いた。1902年3月末までに、政府の許可を得た吸引者は152,044人に減少した。この17,020人の差は、常習者の死亡か阿片使用を断った者の数である。政府の賢明な政策によって吸引者が今後さらに減ることは間違いない。
1900年には3,392,602円あった阿片輸入額が、1903年には1,121,455円に縮小したが、これは注目すべき変化だ。歳入の観点からすれば、台湾で阿片の使用を制限する政策は決して好ましくない。国の財政上、収入を失うのは重大な問題だし、行政費と阿片吸引者の監規に要する費用の膨張を招くからだ。
日本政府は、土着の宗教やしきたりに干渉して、現地人の感情を傷っけないよう細心の注意を払った。日本統治の恩恵がはっきりした形で納得されるよう、人々の生活条件をあらゆる面で改善した。まず第一に、法を守る人は、土匪や強盗集団の暴威、虐待を受けることなく、公正な政府の下で自由を享受できるようにした。第二に、住民の福祉厚生に非常に力を注いだ。
この地では以前から伝染病が蔓延していたが、それは主として澱んだ湖水や汚染した河川の汚濁した水の利用によるものだった。それゆえ、日本政府は水質の良い浄水の供給に着手した。
台湾全土での掘り抜き井戸の数は不明だが、全人口の一割が住んでいる台北地区だけでも800 以上の井戸が掘られている。

秀れた教育制度の発足

教育は全ての進歩発展の基礎であり出発点だが、日本は日本の見事な教育制度を台湾に導入した。台湾には、60人の教師と2,000人の生徒の日本人学校がある。また、台湾本島人のための小学校が130校あり、521人の教師、教育スタッフを擁して18,149人の子供達に文明文化人への道を教えている。
しかし、日本は、本島人に初等教育を施すだけでは満足していない。日本の持っている最高のものを台湾に移入したいという日本の大きな夢から、本島人の為の医学校、日本語学校に加えて教師養成の師範学校も創設した。
台湾の医学校は大きな特徴がある。それは、台湾生まれの学生に対して近代科学の正規課程と医学の実習を教える、極東唯一の医学校だ。台北に本拠を置き、現在、約150人の医学生が有能な日本人教授の指導で学んでいる。
日本語学校には二つの役割がある。島民への日本語の普及を計ると同時に、日本人に現地語を学ばせ、内陸で働ける教師と通訳を養成することだ。(注�)
人の幸せは、日々の生活の安全、圧制からの解放および健康だけでなく、繁栄ぶりによっても左右される。そのため、日本は台湾の発展、繁栄を目指しているのである。

鉄道交通網の整備

日本が台湾を引き継いだとき道路は無かった。不思議なことに、一部に鉄道はあったが、粗末な敷設工事とおざなりな管理のためあまり使い物にならかった。鉄道運賃はほとんど毎日のように変り、列車は「都合のいいとき」だけ運行されていた。
日本は、生活に必要な社会の基礎構造に目を向けて、島の各地で組織的に道路の建設にとりかかった。アメリカ領事館の最近の報告によると、1,000マイル(訳者注:1マイルは約1.6km)以上の道路がすでに完成している。同時に、日本政府は、道路と鉄道の包括的な整備計画を立て、これに28,800,000円、約3,000,000ポンドの投資資金を用意している。これは、日本の国力から見て信じられないような額だ。
既存の鉄道はすでにすっかり修復されている。「新竹」と「高雄」を結ぶ新しい幹線の始発、終着両駅の同時開設には大変な労力を要した。1897年から1903年にかけて、95マイルの鉄道が敷設され37の駅が建設された。導入した貨車、客車の数は210柄、機関車の数は20輌になる。
この間に、乗客数は4倍に、貨物の輸送量は10倍になった。軽軌道の軽便鉄道も導入されたが、その125マイルを日本はわずか2~3ヶ月で完成した。更に、52マイルの路面電車の敷設がこれから始まろうとしている。
郵便、電報、電話の導入もまた大成功だった。1896年から1902年の聞に、全土に公衆用の郵便局が87局開設されたが、1902年には13,285,105通の手紙、葉書と114,779個の小包を配送し、336,207件の内国郵便為替を発行した。電信線は、1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸びた。電話線もI,359マイル設置されたが、1902年にはその利用回数が3,690,228回に達した。
日本の統治が始まるまで、台湾の地場産業は極めて不満足な状態で経営されていた。実り多い土地を科学的に耕作するにはどうしたらいいか無知で、ひたすら神の恵みに頼るだけだった。台湾の農民は、年に2回、時には3回米を収穫できたが、その収穫が労力につり合っていないため、農民の収入は話しにならないほど少なかった。
日本が採った殖産振興策の結果、米の収穫は1896年から1902年の間に1割増加、お茶の収穫もこの間5倍に増えた。また、砂糖、薩摩芋、さとうきび、からむし、黄麻、ウコン等 (注�) の生産も飛躍的に増大した。
広大な森林の資源もほとんど活用されていなかった。資源の無駄使いぶりを示す例を挙げれば、樟脳油は地元の精製業者によって廃棄物として扱われ、樟脳は樹木から抽出していた。日本が導入した改善策の結果、樟脳の生産量は1897年の1,534,596斤(訳者注:1斤は600g)から1903年には3,588,814斤に着実に増加し、樟脳油の生産高がこの間に638,603斤から2,670,561斤に増大した。同じく鉱業も、極めてありきたりの場当たり的なやり方で進められていたため、最大の労力をかけても最小の成果しか得られなかった。
日本は辛抱強く繰り返し指導して、すべての産業分野で改善策の導入に成功した。農産物の収穫は向上し、森林が科学的に開発された。数百万本もの樟脳の苗木が適地に植林された。鉱業はこの数年間で著しい発展を遂げた。

銀行と通貨制度

台湾の通商、産業を発展させるには金融機関と通貨制度の改善が必要だった。そのために、中央銀行として「台湾銀行」を設立し、主要都市に民間の銀行を開設した。
郵便貯蓄銀行も開設され、これも満足すべき成功を収めた。預金者の数は、1896年の5,847人から1902年には41,145人に増加し、この間に預金額も228,487円から763,575円に伸びた。
台湾の通貨も改革しなければならなかった。台湾では、以前から交換手段は支那(清朝)同様に硬貨ではなく金銀の地金だった。かさ張った銅の鋳造硬貨は、大事な商取引ではほとんど使い物にならなかった。日本は、この時代遅れの通貨制度を最新の金融システムに変換した。
日本は台湾に惜しみなく資金を投入した。黒砂糖、白糖、ガラス、紙などの生産工場を建設し、大勢の有能な人材を管理者として送り込んだ。台湾の統治政策で示した日本の開明的な政策は遠からず必ず報われるだろう。
島が完全に平和を回復してほんの数年しか経っていない。にも拘らず、この間に達成された経済成長には目を見張るものがある。住民の福利の向上は、主として政府の公共事業、阿片の専売、通関業務から生じる歳入増で賄われた。1896年には2,711,822円だった税収が1903年には12,738,587円に増加したという事実からこれを窺うことができる。
主として土地、家屋、商売などに課せられる税からなる地方の行政機関の歳入も、1898年の747,850円から1902年には1,952,220円に増加した。4年間でほぼ3倍に伸びている。過酷な徴税手段を一切用いずに、この見事な成果を収めたのである。
したがって、台湾の人口が資源開発と足並みを揃えて急速に増加したのはごく当然だ。1897年には2,455,357人だった台湾の人口が、1903年には3,082,404人に増加しているのである。

訳者 上木劭夫/監修 萩野谷敏明

【参考・当時の台湾の状況と国民党の統治】

注�:清朝は「台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女の蛮地」とまで蔑んだ化外の地であった。
注�:「義警」と言われていた互助組織。
注�:支那人が1945年に台湾を占拠した後、北京語を強制し、全ての台湾現存語の使用を禁止した。これは、時効の無い戦争犯罪行為である。 台湾人はこの歴史を明記すべきである。また、台湾のホーロ一語をローマ字で書いたキリスト教のバイブルを燃やしたのは、侵略者の地方文化の破壊行為としての戦争犯罪である。
注�:生美類は台湾で美黄とも呼ばれ、香料、染料の原料となる。

バックナンバー http://ritouki-aichi.com/category/vot

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