【日台の絆】106歳女性教師の手紙が88歳の台湾人生徒に届くまで

【日台の絆】106歳女性教師の手紙が88歳の台湾人生徒に届くまで
【日台の絆】106歳女性教師の手紙が88歳の台湾人生徒に届くまで

【週刊ポスト:2016年2月19日号】

 2015年3月下旬、台湾のメディアにこんな見出しが並んだ。

〈海角七号真実版! 日籍師寄信找台湾学生(海角七号の現実版! 日本人教師が台湾の学生に
送った手紙)〉

 ここで引き合いに出されている『海角七号』とは、2009年に日本でも公開された台湾映画『海角
七号─君想う、国境の南』のこと。日本統治時代の台湾で日本人教師が台湾人女学生に宛てて書い
た恋文を、現代の台湾で郵便局員が『海角七号』といういまは存在しない昔の住所をたよりに送り
届ける物語で、台湾では記録的なヒットとなった。

 その『海角七号』のような奇跡が、現実に起きたという。台湾統治時代に教師をしていた106歳
の日本人女性が台湾の教え子に出した手紙が、住所不明だったものの現住所を探し出した郵便局員
の手によって届けられ、実に「80年ぶりの交流」を果たしたというのだ。

 小学生の時に警察官の父とともに台湾に渡った高木波恵さん(106歳)は、台中第一高等女学校
(現在の国立台中女子高校)を卒業後、烏日公学校で教師として10年間過ごした。その後は長女の
出産を機に退職し、終戦とともに日本に引き揚げた。

 公学校とは、日本語ができない台湾人生徒を対象に設立された小学校。高木さんは故郷の熊本に
戻った後も、教え子と手紙での交流を続けていたが、最後に手紙を送ってからは20年以上が過ぎて
いた。

 今年1月、日本統治時代の高校野球を描いた台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』が日本
で公開されたのをきっかけに、日本の新聞が、当時、台湾にいて高校野球の試合をラジオで聞いて
いた高木さんのもとへ取材に訪れた。

 高木さんは、80年以上昔の思い出話を語って聞かせた。『KANO』は、日本統治下の台湾にあった
嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)が、日本人・台湾人・原住民の混成チームをつくって甲子園
で準優勝したという実話を元にした作品だ。

 当時を思い出したことで、高木さんはかつて小学2〜3年生のクラスの班長だった教え子の楊漢宗
さん(88歳)宛てに手紙を書こうと思い立ち、娘に代筆を頼んだ。

 手紙は〈春節おめでとうございます。二月十八日 はるか日本国より久方ぶりに楊漢宗様へ〉
で始まり、〈なつかしい烏日公学校卒業の皆様、お元気でしょうか〉と、かつての教え子たちの無
事を尋ねる内容だった。そして〈母がまだ元気で頭脳も確かなうちに娘として知らせてやりたいで
す〉と続く。かつて可愛がった教え子たちの安否を知りたいという一心だった。住所は昔のものし
かわからないため、無事届くかどうか確信はなかったが、祈るような気持ちで投函した。

 手紙はすぐに台湾の烏日郵便局まで届いたが、そこで配達が止まってしまった。高木さんが書い
た宛先の住所は、『海角七号』同様、今は存在しない住所だったからだ。そのため「宛先不明」と
なり、いったんは日本に送り返されそうになっていたのだ。

 だが、ここで一つの“奇跡”が起きる。いつものように郵便物の仕分け作業をしていた郵便局員
の郭柏村さん(28)は、宛先不明の郵便物を集める箱のなかに高木さんの封筒を戻したあと、封筒
の存在が心のどこかに引っかかったという。

「日本から届いた毛筆の分厚い手紙だったので、それを送り返してしまうのは、何かいけないこと
をしているような気がしたんです」

 先輩職員にどうするべきか相談したところ、上司の陳恵澤さん(55)が近づいてきて、封筒をま
じまじと見た。美しい毛筆で書かれた宛先と、8mmほどもある封筒の厚さを見た陳さんは、

「一目見て、この手紙は大切なものに違いないと直感しました」

 そこで、郭さんを含めた4人のチームを組んで現在の住所を探すことにした。

 「この名前知りませんか?」と一軒一軒尋ね歩き、番犬に吠えられたりもしながら探し続けるこ
と12日間。ようやく楊漢宗さんの息子である楊本容さん(68歳)の元に届けられた。

 楊漢宗さんは現在パーキンソン病で身動きが取れないが、ベッドの上で息子の本容さんが手紙を
広げてみせると、嬉しそうに何度も頷いた。手紙にはほかにも何人もの教え子の名前が列挙され、
元気かどうかを〈成績優秀な明晰な楊様におたずね致します〉と書かれていた。その手がかりとし
て、当時の卒業写真とクラス名簿が同封されていた。

 パーキンソン病の父に代わって、同級生を探し出す役目を担ったのが息子の本容さんだった。

 楊本容さんは病床の父に手紙を届けただけでなく、その手紙と写真をコピーし、同じ高木先生の
教え子たちの家を一軒ずつ探し回り始めたのだ。

「父の代わりに私が力になりたいと思ったんです。教え子の方々は、『高木先生は106歳で今も元
気にしているのか!』と言って驚き、とても喜んでいました」

 楊本容さんはそう顔を綻ばせる。

 それから暫くたった4月上旬のある日、熊本に住む高木さんのもとへ、台湾からオレンジ色の分
厚い封筒が届いた。そこには何人もの教え子たちの直筆の手紙と、現在の様子を撮影した写真が詰
まっていた。手紙のコピーを受け取った教え子たちが、みんなで先生に返事を書いたのだ。

 手紙に書かれていたのは、80年前に高木先生から習った、美しい日本語だった。

〈手紙見て心の中から感謝。恭喜申上ます。(中略)ひまがあれば、とうても(注・とても)先生
にあいたい〉

〈「神様の御恵みを感謝致します」。何んとすばらしい事でせう!!(中略)学校で一番きれいな女
の先生の高木先生は印象的で今でもおぼへて居ます〉

〈慈愛に満ちた優しい偉大な先生は私を副級長に選んでくれた事、顔にヒフ病の折メンソリターム
薬を頂いた事、体格の大きい同級生にいじめられた事、受学課外に算術を教へてもらった事、まづ
しい家庭に生れた私に着物も頂いた事は電影の如く頭上に浮んで今でも先生に感謝しています〉

 教え子のひとり、顔にメンソレータムを塗ってくれたことを書いていた楊爾宗さん(88)に会い
に行くと、力強い日本語で言った。

「私のなかでは、高木先生は私の父親よりも親しく、母親よりも感謝しているぐらいなんです」

 公学校2年生のとき、楊爾宗さんには忘れられない思い出がある。寒さが厳しくなった晩秋のあ
る日、不意に高木先生に呼び止められた。見上げると、「楊くん、これやるよ」と言って、衣類を
手渡された。学生服だった。国防色という今でいうカーキ色で、前は金属のボタンで留められてい
た。楊爾宗さんはその服を毎日着て、着られなくなってからもずっと保管し続けていた。

「高木先生は生徒を接近させようと、うちのような金のない家庭の子供には着物を買ってくれた
し、顔に皮膚病があったときには、メンソレータムの薬を買ってくれた。そうして僕は先生を好き
になり、勉強が好きになった」

 楊爾宗さんは戦後、工場経営に成功し、立身出世の人となった。「今こうして社会に立つことが
できるのも、高木先生のおかげ」という彼は、いまでも毎日、日本語で日記を付けている。

 こうして再開した日台間の恩師と教え子の交流は、手紙だけに留まらなかった。昨秋、インター
ネットを使ったテレビ会談が母校・烏日小学校の創立100周年の特別行事として企画され、台湾と
熊本が結ばれたのだ。

 台湾からは約20人の教え子たちが家族に送迎されて参加し、会場となった烏日小学校の式典用の
講堂に集まった。前方に掲げられた大型スクリーンに高木さんの顔が映し出されると、みんな目を
丸くして、食い入るように画面を見つめていた。

 画面のなかの高木さんに向かって教え子たちが語りかける。

「高木先生、おめでとうございます!」

「先生を見ると、僕も本当に元気いっぱいです」

「先生と一緒に120歳まで生きていたい」

 みな口々に感謝の気持ちや長寿を祝う思いを伝えたが、印象的だったのは、教え子のひとりが言
葉に詰まった場面だ。

「これから私と友達は、高木先生の毎日、楽しく、元気で、過ごして、一生……一生涯……」

 なかなか言葉が出てこない。頭の奥底に眠る日本語の記憶、先生の思い出を掘り起こしながら、
心を込めて発していく。それでも言葉に詰まると、高木さんは、すべてわかってるよと言わんばか
りに、

「ありがとう!」

と大きな声を出した。お互いさまざまな思いがあっても、言葉にすると結局「ありがとう」の一言
にしかならないのだ。

 この80年ぶりの“再会”は、台湾でさらに大きな話題となり、メディアもこぞって取り上げた。
総統選において対中関係が争点となるなか、高木先生と教え子たちのエピソードは、日本との古い
絆を台湾人に思い起こさせたのかも知れない。折しも台湾では、若い世代の間で日本統治時代を題
材にした映画やマンガが流行っているという。

 高木さんはこの騒動の間に、107歳の誕生日を迎えた。熊本の自宅に伺うと、「多くの人の手助
けで交流が再開できてうれしい」と言い、丁寧にファイルに綴じられた教え子からの手紙を見せて
くれた。その数は30人以上に上る。

 高木さんは手紙を眺めては教え子たちの写真に目をやり、しばし物思いにふける。高木さんは日
本に帰ってからの戦後70年間、毎朝晩欠かさず、仏壇に教え子たちの健康を祈り続けている。

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