先週、怡友会の中里憲文会長から3本の原稿をお送りいただいた。「台湾出身留学生廖欽
彬と台湾出身家庭の2世が抱えている苦悩の素晴らしい文章を紹介します。内容がよければ
、誰でも良いので転送して下さい」とあった。
まず「嘘をつく」と題された陳邦洋君の文篇と、彼の母である劉文玲さんの文篇を読ん
だ。陳邦洋君の「嘘をつく」は3年前の高校1年生のとき(2003年9月)の文篇で、劉文玲さ
んの文篇はそれに対する母親の立場で最近書かれたものだ。
日本で育った陳邦洋君は、自分が台湾人なのか日本人なのか、答えが出ない。その悩み
を率直につづっている。それに対するお母さんの文篇は感想の域を超えて、そのように悩
む子供を育てる親の立場を率直につづっている。
アイデンティティーの問題は、いつも深刻である。それは国籍を問わない。人間の存在
に関わるからだ。命の根源に関わるからだ。
ここに、陳邦洋君の文篇と、彼の母である劉文玲さんの文篇を紹介したい。じっくりお
読みいただければ幸いです。
なお、いずれも投稿という形で掲載し、いささか文章を手直しさせていただいたことを
お断りします。また、もう1本の文篇、台湾出身留学生の廖欽彬君の「在日台湾同郷会が
主催したサマーキャンプに参加した感想−在日台湾同郷会における自己犠牲的愛をめぐっ
て」は近々ご紹介します。
(メールマガジン「日台共栄」編集長 柚原正敬)
嘘をつく
陳 邦洋
“嘘”、辞書で意味を調べると“事実でないことをだますために言う、間違っているこ
と”とある。つまり事実をごまかす効果がある。そして“嘘”は相手への返答に用いられ
ることが多い。世の中の全ての問いに二つの答え、正しい答えの“白”と間違っている答
えの“黒”があるとする。“嘘”は“黒”を強調するが、実際は曖昧にしている。事実は
“白”なのだが“黒”と思うことは、“白”に“黒”を覆い被せてしまう。ここで曖昧な
色“灰色”が生まれる。世の問いは三つ以上の答えがあることが多いが、やはり嘘は曖昧
を生む。僕の場合、この三つ目の答え“灰色”をすら肯定できないのが問題なのだ。
名前からわかると思うが、僕は台湾系である。中国系と言い張る人もいるが、この場合
、議論するつもりはないので、そう思う人はそう思っても差し支えない。
話を元に戻そう。
僕の両親は台湾人だが、僕は日本生まれの日本育ちだ。両親は台湾人集会によく出かけ
ていて、台湾人という自覚がある。ただ、僕はどうだろうか。日本ではおそらく外国人あ
つかいである。中二の夏休みに台湾に行ったときに親戚にテニスに連れて行ってもらった
が、そこに同年くらいの子供が“遊ぼう”と言ってきた。一緒に遊んで楽しかったが、彼
は僕を“日本人”と呼んでいた。
別に悪意があったわけではない。片言の中国語、そして流暢に日本語を使いこなす僕は
、彼から見て“日本人”である。
そのときは気にならなかったが、最近、彼の声が再び気になりだした。果して僕はどっ
ちなのだろうか。日本人か、台湾人か。僕はこの質問に答えられない。“日本人でもあり
台湾人でもある”とも答えられるが、僕はそれすら答えられない。
僕にこの問いを投げかけてみると、僕は多分逃げるだろう。恐いのだ。一つに答えを決
める勇気が、僕にはない。僕は逃げている。嘘を自分につきつづけている。白か黒かわか
らない色“灰色”を肯定する勇気すら僕は持っていないのだ。いつになったら、僕はこの
問いに胸を張って答えられるのだろうか? 何かもう一つ、貴重な経験が必要なのだと思
う。例えば中国語を習得する、とか。
その経験を得るまで、僕はこの“日本人か台湾人か”という問いから逃げるだろう。人
から問われる度に、否、自分の頭にこの問いが浮かぶ度に、僕は自分に嘘をつきつづける。
2003,9