先日、日本に戻っている時、入院(脳梗塞)してしまい、「台湾通信」作成がすっかり遅れてし
まいました。ようやくNo.102「馬鹿な戦争!?」が出来上がりましたので、お送りいたします。お時
間ある時にお目通しいただけると幸いです。
なお、病気の方は、お蔭様で早期発見、後遺症はほとんどないと言っていいくらいですので、ご
安心ください。もうすでに台湾にもどっおります。どうぞ皆様もご自愛のほどを。
【台湾通信(第102回):2015年9月30日】
◆はじめに
9月26日(土)、廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)警部の慰霊祭に参列させていただい
た。今年で4回目である。3人のお坊様による読経のなか、いろいろなことが思い出される。
今年の夏、ある台湾の老婦人から「日本は何であんな馬鹿な戦争をしたんでしょうね」と、突然
訊ねられた。
廣枝警部は先の大戦、マニラ戦線で部下の台湾人兵士数百人を故郷に帰らせ、自らは拳銃で自決
された方である。「馬鹿な戦争」に従事した者の恩義に報いるために、長年にわたり慰霊を続けら
れた警部の部下、劉維添(りゅう・いてん)氏は一昨年亡くなられた(享年91歳)。
その慰霊を続けられる姿を見て、慰霊を引き継ぐ決心をされたという日本人の渡邊崇之(わたな
べ・たかゆき)氏、さらに今日ここに集まった数十人の老若男女。先の戦争は「馬鹿な戦争」だっ
たのだろうか。「馬鹿な戦争」で亡くなられた方の慰霊の為に、こうして沢山の方々が遠方からお
集まりくださるのだろうか。
◆廣枝音右衛門氏慰霊祭
廣枝警部については台湾通信No.70「廣枝音右衛門氏」(2013年1月31日)で紹介させていただい
た。
警部は突撃命令が出された時、部下たちに「故郷には妻子父母兄弟が待っている。ここで死ぬこ
とはない。何とか生きて帰れ」と指示し、自らはその責任を取って自決された。戦後、日本人を祀
ることなどできない中、劉維添氏は仲間とともに隊長の恩に報いるために、慰霊祭を執り行って来
られた。
渡邊崇之氏は劉維添氏の遺志を引き継ぎ、毎年9月26日、廣枝警部並びに劉維添氏の命日に慰霊
祭を執り行うことを誓っておられる。我々も出来る限りの応援をしたいと思い、また多くの台湾、
日本の人々に、特に若い方々にこのことを知っていただきたいとの思いで、慰霊祭に参列させてい
ただいている。今年の慰霊祭には最年長は88歳、最年少は5歳の善男善女48人が集われた。
◆ある老婦人の問いかけ
ある会合でのこと、私の隣に座られた優に80歳を超えられた老婦人が、四方山話の途中、突然先
の質問をされた。私は一瞬どう答えたものか、「そうですねぇ」と相槌を打つもよし、「さぁ…」
ととぼけるもよし。しかし、その時「テル爺様」の「誤りはその場で正すべし」の声が聞こえたよ
うに思う。
テル爺様についてはいつの日か、この「台湾通信」で取り上げたいと思っている方で、旧海軍の
勇士、日本再興のために尽力されている西川晃男(にしかわ・てるお)氏である。
ある時、ある台湾人が大東亜戦争について、「?」が付く考えを述べたとき、すかさず大きな声
でその誤りを指摘し、正されるのを見かけた。私がその大きな声に驚いていると、テル爺様は「誤
りは云々」と仰ったのである。
老婦人に対して、「私は馬鹿な戦争とは思いません」と、私が知っている範囲の、真珠湾攻撃に
至る日本の歴史、経済封鎖、日本の資源状況、失業の恐怖、ABCD包囲網などの話をし、かの戦
争は自衛のための戦いであって、あそこで立ち上がらなかったら今日の日本はあり得ないと思う、
などと話した。
老婦人は、小さい声で「私が聞かされていることとまるで違う」と怪訝な顔をされていた。
この方の年齢は分からないが、現在85歳として、終戦時は15歳前後、戦後受けられた教育は中華
民国のそれであろうから内容は推して知るべしである。
◆あの戦争は馬鹿な戦争か?
インターネットのあるサイトで「『歴史のifはない』とはそもそもだれが言い出したのか?」と
いう問答を見つけた。ベストアンサー以外の回答に「歴史で起きた事実は一つしかない訳で、どの
ように『もしも』を加えて、想像を逞しゅうしても、現在につながらないということだと思いま
す」という回答があった。なかなかの卓見である。
あの戦争が「馬鹿な戦争」か否か、戦争の目的は何か、そしてあの戦争は目的を達成したかどう
か、考えてみたい。
以下は、昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言であ
る(「芋太郎の広場」より引用)。
マッカーサーは、日本が狭い国土に膨大な人口を、労働に価値を置く優秀な労働力を抱え、生産
能力を有しているにもかかわらず、国産の資源がないことに触れ、
「日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿がなく、羊毛が
なく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、その他にも多くの資源が欠乏しています。それ
らすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。
これらの供給が断たれた場合には、日本では1000万人から1200万人の失業者が生まれるという恐
怖感がありました。
したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったの
です」
と証言した。
目的は決して一つではないかもしれないが、少なくとも経済的自衛と言う目的はあったと思われ
る。
日本は1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾し、敗戦国となったが、1964年に東京オリンピック
を開催し、世界に戦後復興の姿を示した。敗戦後20年足らずで復興し、やがて世界第2位の経済大
国になったのである。これでもあの戦争は「馬鹿な戦争」だったのであろうか。
とは言え、あの戦争では悲惨な出来事がたくさんあったのも事実である。私は戦争を礼讃し、前
の大戦を美化する積りは毛頭ないが、前述の「if」論ではないが、「結果は結果」ではないだろう
か。
◆友志会での握手
積極的に戦争をしたいと思う人はまずいない。10日ほど前、9月19日、「安保法案」が参議院を
通過した。この法案は戦争を抑止する目的で作られたと理解しているが、この法案を「戦争法案」
と称して反対する人々もいる。
国会前で行われたデモをテレビで見たが、60年安保を思い出した。もちろん私もデモに参加した
し、6月15日の夜(樺美智子さんが亡くなられた)も国会周辺におり、「安保反対!」「岸を倒
せ」を叫んでいたが、実は当時、安保条約の条文を1行も、1字も読んでいなかった。
月刊「WiLL」という雑誌(2015年10月号)によると、当時の全学連の指導者唐牛健太郎(かろう
じ・けんたろう)氏も西部邁(にしべ・すすむ)氏も条約文を読んでおらず、唐牛氏は「馬鹿野
郎、あんなもの読むわけねえだろう」と言ったとか。
今回、国会周辺で「戦争法案反対」を叫んだ人々は、皆さん法案の内容を熟読玩味されての参加
であると思いたい。
李登輝友の会のメルマガ「日台共栄」Vol.2489に、櫻井よしこ氏が台湾安保協会(羅福全理事
長)が主催する「両岸関係とアジア太平洋地域国際平和セミナー」の会場に着くや、「台湾の関係
者が『安保法制成立おめでとうございます。』と次々に声をかけてきた」と報じている。
実は、私も同様な経験をしている。高雄の日本人学校の先生方が中心となって進める日台交流の
会「志の会」(台湾の正式名称は「友志会」)があるが、7月19日の月例会の場で、会員の王朝桐
さんがニコニコと握手を求めてこられ、「おめでとう、安保法制成立、これで台湾も安全に……」
と仰った。同月16日に安保法案が衆議院を通過したことを祝ってくれたのである。
台湾にはこのように、このたびの「安保法制」とその審議過程に強い関心を持つ方がおられる。
◆おわりに
「馬鹿な戦争」が起こらないように最大限の外交努力をしなければならないが、こちらの意図に
反して、戦争を仕掛けてくる国がないとは言えない。国の安全は自ら守らねばならないのは当然で
あって、そのための備えはしっかりとしておくのが、普通の国の責務である。先人の慰霊祭におい
ていろいろ考えさせられた。