大の石井望(いしい・のぞむ)准教授も、中国や台湾が尖閣諸島を自国領と主張する根拠を覆す史
料を次々と明らかにしてきている。
このたび、日清戦争直前の明治26年(1893年)に清国が日本側に出した公文書で、尖閣諸島(沖
縄県石垣市)を清国領と認識していなかったことが同氏の研究で分かった、と産経新聞が報じてい
る。
尖閣諸島を巡る中国の主張を覆す公文書が発見 清国は領土と認識せず
【産経新聞:2015年3月15日】
日清戦争直前の明治26(1893)年、清国が日本側に出した公文書で、尖閣諸島(沖縄県石垣市)
を清国領と認識していなかったことが、 長崎純心大の石井望准教授(尖閣史)の研究で分かっ
た。中国側は現在、尖閣諸島について清国の領土であり、日清戦争に乗じて「日本が強奪した」
(中国共産党機関紙「人民日報」)と主張するが、新たに確認された公文書は、この主張を覆すも
のといえる。(奥原慎平)
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公文書は、尖閣諸島に向けて出航し、難破した熊本県民ら3人に関する両国間の往復書簡「熊本
県民井澤弥喜太外二名清国、漂流したる節救助したる同国地方官、謝意傳達之件」。日清間で交わ
された書簡など計9通からなる。
日本内外の漂流事例を記録した「困難船及漂民救助雑件」(外務省外交史料館所蔵)に収録され
ている。尖閣諸島をめぐる日清間の動向を記録した公文書が確認されたのは、初めてだという。
公文書によると、熊本県の井澤弥喜太は明治26年6月、2人の鹿児島県民とともに、胡馬島を目指
して八重山島(石垣島)を出航した。胡馬島は、尖閣諸島の魚釣島か久場島とみられる。だが途
中、暴風雨に遭い、清国の浙江省に流れ着いた。
3人は清国の官憲に保護され、取り調べを受けた後、上海経由で9月に日本に移送された。
同年12月、外務大臣だった陸奥宗光は、3人の保護・移送に協力してくれた清国の地方官へ感謝
する趣旨の公文書を、上海総領事館に作成させ、福建省福州海防官(長官級)宛てに送った。
その中で、漂流の経緯については、3人は八重山島から、胡馬島を目指したが、中国沿岸に流れ
着いたと説明した。
公文書を受け取った海防官は「胡馬島が目的だった」という日本側の説明を引用した上で、「こ
こに上述の趣旨の通り、(各地方官に)報告及び通知する」と記すのみで、3人が胡馬島を目的地
とした点について、抗議などした形跡はなかった。
翌明治27年7月に日清戦争が始まった。明治政府は戦争中の28年1月に閣議決定し、尖閣諸島を日
本の領土に正式編入した。
現在、中国は、尖閣諸島を17世紀に清国が編入した台湾の一部だとして、領有権を主張する。ま
た、明治政府による閣議決定について、日清戦争に乗じて尖閣諸島を奪ったなどと主張する。
今回、石井氏が発見した公文書は、日清戦争以前から、清国が尖閣諸島を領土とは認識してはい
なかったことを示すといえる。
尖閣の歴史に詳しい筑波大名誉教授の尾崎重義氏(国際法)は「当時、中国側が尖閣諸島を台湾
の一部と認識していたなら、(領土侵犯として) 問題にすべき話だった。尖閣は清国外の無人島
という認識だったのだろう。『無主地』として日本領土に編入した明治政府の決定が正しかった傍
証となる」と指摘した。
石井氏も「そもそも、尖閣諸島の西側には中国の国境線を記録した史料が多数あり、無主の地で
あることは明らか。日清間の公文書はその裏付けとなる」と述べた。
尖閣諸島をめぐっては自民党の原田義昭衆院議員が今年2月、国会質問で、日本の国土地理院に
当たる中国国家測量局が1969年、尖閣諸島を日本領としていた地図を発行していた事実を指摘して
いる。