何度ご馳走になったことだろう。何回、議論したことだろう。熱血漢、迸る活気は、あ
の壮健な身体からあふれ出るようだった。
台湾へ行くと、氏の事務所をよく訪問したが、ある時は雑誌記者を、ある時は評論家グ
ループを引率した。ラジオの番組のため録音取りに伺ったことも二回あった。青島東路と
杭州南路のあたりで、時に道に迷った。
ミッキー安川さんが生前、台湾取材へ行くから案内せよというので同道したおりも、黄
主席の、大局をいきなりわしづかみにする話し方とそのわかりやすさに感動し、「日本に
来たら是非、番組に出てくれ」と頼んでいたが、先にミッキーさんが冥界へ旅立った。
その後、息子のマット安川氏が父親の遺志をついで台湾へ取材に行くと真っ先に黄昭堂
主席にインタビューした。
ある時はルーズベルト通りの奥に引っ越した「真北平」という北京ダックの名物店に六
名ほどで行ったが、食欲もすごい人で、ミッキーさんも食通だったが、二羽をたちまちに
して平らげたことは強烈な印象で影像がまぶたに浮かぶほどだ。
氏の台湾独立にかける熱意は、台湾独立運動活動家の精神的支柱でもあった。 合掌
●黄昭堂先生の急逝、誠に残念でなりません 梅原 克彦(前仙台市長・本会常務理事)
私が経済産業省を退官する直前の2005年4月、台北の台湾独立建国連盟の事務所を訪ね、
先生に初めてお目にかかって以来、李登輝元総統の「奥の細道探訪の旅」で御一緒したり、
私にも何かと目をかけて頂きました。
心より御冥福をお祈り申し上げます。
●黄昭堂先生の思い出 冨澤 賢公(李登輝学校研修団一期生)
黄昭堂先生の突然の訃報に接し驚きとともに、悲しみに耐えません。
日本に留学され、台湾独立運動を留学生仲間と決起された故に、国民党にパスポートを
剥奪されブラックリストにのりました。それで、台湾に帰れず、親御さんの御葬式にも出
られなく日本で涙を流されたということもお聞きしました。
台湾独立運動の御仲間の周英明先生も数年前に亡くなられ、残された同志の方々の悲し
みもいかばかりかと思います。
あの巨体をご自身で体重はO.1トンとおっしゃっていたことを懐かしく思いだします。
古い写真を見ると留学生時代の黄昭堂先生は、それはスリムでなかなかの美男でありまし
た。また、軽妙洒脱なあの語り口は日本人以上に達者な日本語でした。
決して難しい言葉を使わず、誰でもわかりやすい独特のユーモアを交えた講義は皆を楽
しませてくれました。
第一回の李登輝学校の卒業式の懇談会で、ある受講者が「台北にある故宮博物院の中国
の宝物はどう考えますか」と質問しました。その答えは「あんなもの着払いで中国に返す
か台湾海峡に捨てちまえ」と答え皆を笑わせたこともありました。
李登輝元総統が「奥の細道」の御旅行のとき、松島での記念写真撮影に東京からの追っ
かけの我々も加えていただきました。帯同されていた黄昭堂先生は、その写真を次の日に
は我々に分けてくれました。その写真は私の宝物です。
気さくな御人柄を偲ばずにはいられません。偉大な方が「千の風に」なられました。黄
昭堂先生は千の風になられて、台湾と日本の空を吹き渡って二つの国の「絆」と「輝かし
い未来」を見守ってくれることでしょう。
先に亡くなられた愛する奥様の元へ旅立たれ、今頃は天国で奥様にどのような言葉をか
けておられることでしょうか。黄昭堂先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
●黄先生有難うございました 松田
残念です。黄先生有難うございました。台湾のために今まで有難うございました。ゆっ
くりおやすみ下さい。重ねてまして黄先生有難うございました。
●驚いています 猪鼻 嘉行(公認会計士・本会監事)
黄昭堂先生の訃報に驚いています。
ここのところ、わけのわからない胸騒ぎを感じていたのですが、オリンパス事件もあり
仕事方面の胸騒ぎだと思っておりました。
前回の市長選挙の後にお会いしたのが最後になってしまいました。
だいぶお肥りになられていたように拝見したので、「先生、お忙しいとは思いますが健
康にはお気をつけください。」と申し上げたのが私からの最後の会話になってしまいまし
た。
台湾独立運動にとってその当初からというより、日本での台湾青年独立建国連盟の創設
者のお一人であり、王育徳先生の教え子でもあり、その損失は測り知れません。
今は「ただただ御冥福をお祈りするのみです。」というべきですが、私の本心は「先生、
是非魂魄この世に止めて、台湾建国を見守って下さい。」と申し上げたいところです。
なんだかとても悔しいという気持ちです。
「黄昭堂先生。お疲れさまでした。」
●無念です 大内 保治