ら、3月11日の地震発生から3週間が経過したその後の石巻市内の様子をお伝えいただきま
した。
被災地の場所によってまだまだ食料支給などにばらつきがあるそうで、身内を亡くされ
た「遺族の悲しみは消えず、精神的な消耗は計りしれません」とも伝えてきています。深
刻なのは「以前は仲の良かつた漁村地域では険悪な空気が蔓延して」いることで、高橋さ
んは「仕事や未来への展望を早急に示し、希望を感じさせるべきでせう」と提案していま
す。
ただ、被災地ではまだ行方不明者が1万5315人(4月4日午後8時現在)もいます。現在は
その捜索活動を主に行なっているようで、重機などを入れての本格的な復旧に向けた活動
までにはもう少し時間がかかる見込みのようです。
しかし、高橋さんの報告にありますように「被災程度と被災後の環境で被災者の意識は
かなり違」うとのことですので、李登輝元総統も指摘されていましたように、「被災者の
心のケアも軽視できない重要な課題」(本誌3月20日発行、第1269号参照)ですので、行政
側には今後早急にそのようなきめ細かな対応が望まれます。
なお、高橋さんは正漢字(台湾で言う「繁体字」)に歴史的仮名遣いで書かれています
が、読者の便を考えて漢字は常用漢字といたしました。また、詠みやすさを考慮して読点
や改行などを施し、タイトルとサブタイトルも編集部で付したことをお断りします。
被災から3週間後の現場─被災程度と被災後の環境で異なる被災者意識
現在、被災地では食料に関してはそれほど困らなくなつてをります。むしろ、だぶつく
日が多く、タイミングによつては配給に並ばずに食べ物が手に入ります。もつとも、被災
者の避難してゐる学校はこの点の心配はありません。
私の周囲は、北に生活協同組合、南に渡波(わたりは)小学校、東に宮城水産高等学校、
西には渡波駅があり、どつちに歩いても、数分も掛からず配給所があります。支所も近い。
周囲に給水箇所は三ヶ所ですが、距離は同様です。
渡波駅を境界線として被害規模が変はり、北側は比較的ましです。駅から北以外の地域
は壊滅的被害を被つた地区が少なくなく、とても人の住める状態ではありません。そのせ
いか、NPOや海外支援団体、民間ボランティアは生協と渡波駅に多く集まり、近辺住民
は食べ物には恵まれてをります。
メディアは、ルース米国大使が来た渡波小学校を取材場所に選ぶ場合が多いのですが、
惨状の光景は丁度この建物を境に広がります。
被害の甚大な場所には配給や炊き出しボランティアが入らないため、渡波駅から北以外
の住民は、主に避難所生活か、壊れた家屋で全てのインフラが寸断されたままの上、配給
所まで毎日通ふ生活を未だ続けてをります。
被災住民にも格差があります。家族など身近な方が亡くなられた遺族の悲しみは消えず、
精神的な消耗は計りしれません。解決は時間しかありません。
仕事の手段や財産を失ひ、負債だけが残つた方は、将来への不安からか苛立ちが募り、
しばしば喧嘩なども発生して、以前は仲の良かつた漁村地域では険悪な空気が蔓延してゐ
るやうです。彼らには仕事や未来への展望を早急に示し、希望を感じさせるべきでせう。
被災が比較的軽微な方々は、配給場所などが近いため、インフラ復旧後は直ちに上記被
災者が自立できる環境をサポートする役に回るべきでせう。ただし、仕事を失つたことは
変はらないため、配給生活に甘えないやうな意識を保つのが現在の課題です。
上述のやうに、被災程度と被災後の環境で被災者の意識はかなり違ひますし、避難場所
でも違ひます。時に避難程度の比較的軽い者には、外から観てゐる者が奇異に感じる場合
すらあります。
一週間以上前から、石巻渡波地区は配給など食料はかなり供給されてをり、すでに被災
者同士でも食料を分け合つたり、交換する対象ではありません。支援として供給過多で、
おにぎりやパンは、賞味期限上は日持ちしないためか、なるべく供給量をその日のうちに
配布しようとするために、受給側の要求よりも多くなりがちです。
しかし、日によりばらつく、もっとも劣悪な条件のまま半壊家屋にいる場合と、炊き出
しすら入らない地域に残る住民は別ですが。
今回の犠牲者も、いはゆる「災害弱者」と言はれる50代後半を過ぎた方や幼子の比率が
高く、若者の場合、出歩いてゐて運悪く被災した方が多いやうに見えます。
以上、災害から3週間後の現場からの報告です。(4月3日)
宮城県石巻市 高橋俊一拝