自民の痛手となった中川昭一氏の死去 [花岡 信昭]

10月8日、麻布の善福寺で斎行された中川昭一氏の通夜に参列して来た。午後6時からと
いうので、少し前に着くと、金木犀の香り漂う善福寺参道の上り坂は長蛇の列。弔問者は
少なく見ても数百人、1,000人ほどもいたのではないだろうか。学生服を着た学生やセー
ラー服の女学生も結構交じっていた。

 待つこと約1時間半、ようやく焼香の順番が回ってきたが、先に焼香を済ませた鳩山首
相の車が通り過ぎ、自民党の大物議員たちも歩いて坂を下ってくる。本会の小田村四郎会
長や金美齢さんもその中の一人だった。横田滋・早紀江さんご夫妻の姿もあった。

 斎場では、清水誠一・北海道議会議員(本会理事)など多くの政党関係者が案内役をつ
とめ、中では奥さんの郁子さんやお子さんたちが弔問の方々に挨拶されていた。

 本誌では急逝された翌日、西村真悟氏の追悼の言葉をお伝えした。ジャーナリストで拓
殖大学大学院教授でもある花岡信昭氏が本日のメールマガジンで「国家観や歴史観を大切
にしようとする保守派のリーダー的存在であった」として惜別の思いをつづり、「保守派
にとっては痛恨事」だったと述べている。

 やはり、総理大臣の器を具えた指導力のある政治家が少ないように見受けられる昨今、
中川昭一氏の急逝は痛手だったように思う。ましてや日台関係を牽引するリードする政治
家が少ない現状を思えば、まことに惜しまれて余りある死だった。李登輝元総統は弔辞を
寄せ、蔡焜燦氏は弔電を打たれたという。

                 (メールマガジン「日台共栄」編集長 柚原 正敬)


自民の痛手となった中川昭一氏の死去
【10月12日 花岡信昭メールマガジン756号】

 自民党の中川昭一氏の急死はショッキングなニュースだった。56歳というのはいくらな
んでも早すぎる。保守のホープとして将来の首相候補の1人でもあっただけに、再生を目
指す自民党にとってなんとも痛手となった。

 中川氏急死の報を受けて、真っ先に浮かんだのが、父・一郎氏の自殺だった。1983年だ
から、もう26年も前のことだったのかと改めて思い出した。

 一郎氏は当初、病死として伝えられた。ホテルのバスルームでの死去だったので、一報
当時からなにか違和感はあった。数日後だったか、深夜、筆者が勤務していた産経新聞の
政治部に電話が入った。自民党の大物議員である。すでに故人であり、もう時効だろうと
判断して書く。

 「中川は自殺だ。さっき、内輪の会合でつい、しゃべってしまった。帰ってからメンバ
ーの中にNHKの関係者がいたことを思い出した。オレは産経のファンだから、お宅にだ
けは伝えておくよ」

 そんな内容だったように記憶している。筆者はたまたま、まだ居残っていた。すでに午
前零時を回っている。こんな時間にいったいどう確認を取ったらいいか。社会部で警視庁
詰めをした経験もあるから、こういうときは警察のトップに直接聞いてしまえと北海道警
の本部長に電話を入れた。

 否定されるだろうなと思ってかけたのが、意外にも、すんなりと認めてくれた。当時の
状況もきちんと話してくれる。興奮気味に質問を浴びせる筆者に対して、落ち着いた口調
ですべてしゃべってくれたことを思い出す。あとになって、おそらくは「メディアから当
たりがあれば認めよう」という了解が関係者と警察の間で出来上がっていたのではないか
と思い当たった。あるいは、その大物議員が北海道警にも手をまわしていたのかもしれな
い。

*父親の一郎氏同様、繊細な性格だった昭一氏

 一郎氏は「北海のヒグマ」などと言われていたが、豪放磊落に見えて、実は繊細な人だ
った。ちょっときつい質問をすると、はにかんだような顔をしてぼそぼそと答える。こま
かいことは忘れてしまったが、その少年のような笑顔だけは覚えている。

 昭一氏急死の報道の中で、一郎氏の秘書をしていた鈴木宗男氏が「こういう別れた方を
するなら、もっと話しておくことがいっぱいあった」と涙ぐんだという記事が胸をついた。
鈴木氏は一郎氏の弔い選挙として出馬した昭一氏に対抗して立候補、「骨肉の争い」とも
いわれた。

 先の総選挙で鈴木氏は新党大地の代表として比例で当選、昭一氏は民主旋風の中で復活
当選もならなかった。その大きな敗因となったのは、2月のローマでのG7(主要7カ国財務
相・中央銀行総裁会議)終了後の「もうろう会見」だったことは言うまでもない。

 親子を取材してきた経験からすると、性格はよく似ていたように思える。昭一氏も豪放
タイプのように見えて、いろいろなことを気にする神経のこまやかさを持っていた。

 もう何年か前になるが、日台関係の団体が主催して政治家と民間の企業人らが台湾を訪
問する計画があった。昭一氏はもちろん親台派だ。事前の打ち合わせ会が議員会館の会議
室で行われ、昭一氏も出席した。当然、一緒に行ってくれるものと思っていたが、昭一氏
の発言がどうもはっきりしない。そのうちに「別の会合があるので」と退室してしまった。

 あわてて後を追いかけ、廊下を歩きながら「行けないんですか」「党内の事情をちょっ
と考えているんだ」といったやりとりをしたことを思い出す。親台派でありながら、その
時期に自身が訪台することの影響をあれこれ慎重に斟酌しているのである。結局、昭一氏
はこのときの訪台団には加わらなかった。繊細な人なのだなと改めて感じたものだ。

*単なる「骨肉の争い」で片付けられぬ、鈴木宗男氏との縁

 「もうろう会見」は麻生政権の足を引っ張ることになる。日頃から酒好きで知られ、昼
間でも酒臭いことがあったから、この会見も当初は「酩酊」と伝えられたが、実際には昼
食のワインに口をつけた程度で、風邪薬の過剰投与が原因だったようだ。

 ではあっても、麻生政権に取り返しのつかないダメージを与え、ひいては自民党の総選
挙惨敗の流れをつくり出す一因となってしまったことへの心労は相当のものがあったに違
いない。死因は心筋梗塞と発表されているが、一連の経緯が体力、気力を減殺させ、体を
むしばんでいったのだろう。

 政治家というのはすさまじいまでの「胆力」が必要なのだということを、痛烈に感じさ
せる。

 鈴木宗男氏は毀誉褒貶激しい政治家だが、パーティーなどで初めて会って、その物腰の
低さに驚いた人は少なくない。メディアで伝えられている人物像とまったく異なるのだ。
筆者なども、国会の長い廊下で20メートルも先から「やあ」と手を挙げられて戸惑った経
験がある。

 冬の選挙では選挙カーの前を長靴で走る。雪をかきわけて一人一人に握手していくのだ
から、北海道にファンが多いのもうなずける。

 中川一郎氏の秘書時代、鈴木氏にはある特技があった。一郎氏ぐらいの大物になると、
一晩に2件も3件も会合をこなさなくてはならない。鈴木氏は秘書として随行する。次の会
合に間に合わせるためには8時に出なくてはならないというとき、鈴木氏は7時半にまず一
郎氏に声をかける。

 「先生、次の会合のお時間です」。一郎氏は満座に聞こえるように「ばかやろう。こん
なにみなさん、喜んでくださっているのに、なんだ。待たせておけばいいんだ」とどやし
つける。鈴木氏は「すみません」と平身低頭する。

 10分か15分して、鈴木氏がまた声をかける。「先生、そろそろ」「うるさい。何度も言
わせるな」といったやりとりが3回ほど続いて、ようやく一郎氏が「秘書がうるさく言う
んで、仕方ありません。お名残り惜しいですが、失礼させていただきます」と頭を下げる。
これで、その会合の出席者は納得、満足する。

 車に乗り込むや、一郎氏は鈴木氏に「いつもすまんな」とねぎらうのである。このエピ
ソードには、一郎氏の隠された気遣いの気持ちと、鈴木氏の「秘書の鏡」的対応が浮かん
で見える。

 政治の世界は人間がやることだから、こういうことが意外なまでに重要な要素を占める。
昭一氏の死去で鈴木氏が涙を流したというのは、そうしたさまざまなことが一挙に去来し
たためではないか。「二世対秘書の因縁の対決」などと書き立てるのがメディアの得意と
するところだが、実態はもっと人間臭いのである。

*保守派復権に大きなダメージ

 自民党再生のキーワードは「保守復権」ではないか、とこのコラムでも書いてきた。民
主党政権がリベラル度を高めれば高めるほど、自民党にとって保守合同当時の原点を思い
起こす必要があるように思える。

 そうした点からすると、中川昭一氏の死去は、保守派にとっては痛恨事である。保守派
の中心である平沼赳夫氏はまだ自民党に復党していないし、安倍晋三氏の「再登板」をた
だちに可能にする状況にはない。

 総選挙惨敗後、保守派とされる落選議員たちと会う機会があったが、当選した自民党
119人のうち、いわゆる「真正保守派」と見られる人はどう勘定しても15人から20人程度
という。

 国家観や歴史観を大切にしようとする保守派のリーダー的存在であっただけに、中川氏
の死去は、いまの日本の「政治思想状況」にも多大な影響をもたらしかかねない。中川氏
は「拉致議連」の会長でもあった。

 論壇の世界でもそうだ。朝日の「論座」は休刊に追い込まれ、「諸君!」は保守度が低
下したがゆえにこれまた読者離れを招いたとされ、「正論」「Will」「Voice」といっ
た保守系論壇誌の独壇場といった状況が現出していたはずだ。

 民主党の歴史的圧勝と保守系論壇の存在感とはかなりの乖離がある。このあたりをどう
理解すべきなのか。中川氏の死去で、そんなところにまで思いが及んだのである。